養護教諭の歴史とアイデンティティに関する研究

――養護概念の変遷の検討を中心に――

鈴木裕子(横浜国立大学教育学研究科修士課程)

*この論文は横浜国立大学障害児教育講座神経精神医学研究室編集・発行のon-line誌「障害・医学・教育研究会誌」Vol.4(2002) p134-198に掲載されたものである。

 
      目 次 

序 章                   

   1.問題の所在

   2.研究の目的

第1章 養護教諭の成立と職務の変遷     

    1.養護訓導制定までの経過

    2.養護教諭の職務の変遷

第2章 養護概念の変遷           

    1.「養護」概念の起こりと日本への導入

    2.「養護」の発展

    3.養護概念・養護機能に関する議論

第3章 特殊教育における「養護」       

    1.養護学校・養護学級の名称の確立

    2.特殊教育と養護教諭

第4章 近接領域における養護的概念と養護教諭 

    1.看護と養護

    2.その他の領域

終章 養護教諭のアイデンティティ      

結論


序 章 [to top]

1.問題の所在

(1)「養護」の本質の追究の必要性

 養護教諭は学校教育法第28条(第40条で中学校、第50条で高等学校、第76条で盲・聾・養護学校に準用)によって、「児童の養護をつかさどる」と定められている。この他にその職務について定めた法規・通達はない。このため、この「養護」をめぐって、「養護教諭の専門性とは何か」「養護教諭の役割とは何か」が問われ続けてきた。

 小倉1)は養護教諭養成機関の教員として、「健康を保持することの教育的意義や、その面を専門職として分担する養護教諭の職責となると、『養護』の概念をさらに分析的に明らかにし職務内容として把握する必要が生じてくる。『養護教諭の職務の本質は何か』という問題の中核として、この養護の意味を追求することが含まれている」と述べ、養成制度も未確立であった1960年代から養護教諭の専門性の理論化の研究を先進的に行ってきた。その背景には、養護教諭は専門職であると言われながら、独自の学問的基盤がなく、その養成においては近接領域である看護学等に依存し、職務遂行上もその技術や方法論を援用してきた経過がある。このことが、養護教諭を看護職と同一視したり、救急看護のみに養護教諭の専門性を期待したりするという誤解につながってきた可能性も考えられる。

 学校という教育の場における養護教諭の活動には臨床看護とは異なる理論的根拠が存在するのではないかという指摘は以前からなされてきた。しかしそれを明らかにしようとする研究はまだ少なく、また養護教諭の役割も時代とともに変化し、その本質について十分な議論が深められていないように思われる。

 例えば1994年、いじめによる子どもの自殺という事件が起き、大きな社会問題として取り上げられた。文部省は「いじめ対策緊急会議」を設置し、ここで養護教諭はいじめの兆候に気づきやすい立場であるということから、いじめ問題への適切な対応や養護教諭の保健主事への登用などを新たに示した。次いで1997年、保健体育審議会の答申2)が出され、その中で養護教諭の新たな役割として「心や体の両面への支援を行なう健康相談活動(ヘルスカウンセリング)」の重要性が強調された。養護教諭の中にはカウンセリングについて専門的に学ぶ者も表れてきたが、近年学校にスクールカウンセラーが配置され始める中で、養護教諭の分担する専門性について示せる定義や規準が十分でない現状がある。

 また、同答申ではいじめに関する心の健康問題だけでなく、薬物乱用、性の逸脱行動、肥満や生活習慣病の兆候、不登校などの深刻化する現代的課題も指摘され、それらの予防につながる健康教育の充実が述べられている。それを受けて1998年の教育職員免許法一部改正の際には、養護教諭が教諭としての兼職発令を受けて授業を保健の授業を担当できることになったが、養護教諭が保健室を空けて授業に出ることが望ましいのかどうか、養護教諭の間でも意見が分かれている3)

 その一方で、養護教諭に関わる別の課題も生じている。ノーマライゼーションの進展により、養護学校、さらには通常学校にも医療的ケアを必要とする児童生徒が通学するようになってきた。これらの特別な健康管理を必要とする子どもたちに、養護教諭としてどう関わるのか、医療的ケアを実施できるのか、もし看護職が配置されたとき養護教諭と看護職はどのように仕事分担をするのか、などの議論が盛り上がっている4)5)。この問題は養護教諭と看護職の違いを問われる、まさに養護教諭のアイデンティティに関わる重要な課題である。

 これらのことから、近年、状況の変化に振り回されない「養護」の固有の概念を追究し、専門職としてのアイデンティティの確立をはかっていく必要性が強く主張され始めている。三木6)は「如何に社会が変化しようとも時代を超えて変わらない価値あるもの、かつ変化に即応し柔軟かつ適切に応え得る養護の本質の追究」を主張する。後藤7)は、「今こそ、養護教諭の専門職としての真のアイデンティティーの確立を目指す必要があり、そのためにはその専門性を確固たるものとして自他に明らかにすることが必要である」と述べる。

(2)養護の名称の問題

 「養護」という語は養護教諭関連以外にも教育・福祉の分野で幅広く用いられている。特殊教育では「養護学校」「養護・訓練」という用語が定着しており、また福祉関係では「児童養護施設」「養護老人ホーム」などの名称が一般化している。「養護」をキーワードにNACSISによる文献検索をしたところ、検出された200件の著作のうち46.5%が障害児教育に関するもの、28.5%が社会福祉・養護施設に関するものであり、養護教諭・学校保健に関するものは25.0%であったという報告がある8)

 そのため、特に同じ教育分野の職業として「養護教諭」と「養護学校教諭」の混同・混乱が見られるという指摘がある。小倉はかつて養護教諭養成機関に養護学校教諭を志望するものが入学してきた例を紹介している9)。各種事典で「養護教諭」の解説を調べた小林10)は、「児童学事典」(光生館、1977)では「養護教諭:小中学校、盲聾養護学校において児童生徒の養護に当たる教諭。養護学校教諭と混同してはならない」とあるものの、「現代教育小事典」(ぎょうせい、1980)では「養護教諭?養護学校」とあり、混乱が見られるとする。また小林は、現職養護教諭を対象に調査を行った結果、養護学校教員と間違われると解答した者が51.4%いたことも報告している。こうしたことから養護教諭の中にはこの「養護教諭」という名称に対して否定的なイメージを抱いたり、名称を変えるべきではないか、という主張もみられる11)。このことについて、1965(昭和40)年に日本教育大学協会が文部大臣に提出した「教育職員免許法改正に関する意見書」の中の一項目として「養護学校教諭と養護教諭との名称の紛らわしさを避けるために、養護教諭の名称を例えば学校保健教諭(仮称)と改める」という内容が入っていたとされる12)が、その後特に動きはみられないまま推移している。

 また近年は、「養護教諭」の英訳についても議論がある。従来国際的な学会においては、school nurse、nurse teacher、YOGO teacher、YOGO-KYOYUなど使用者の意向によりさまざまな表記がなされ、統一をみていない。鎌田13)は国際会議出席者(12カ国31名)に対してアンケートとインタビューを実施し、養護教諭に近いと思われる英語表記を選択肢から選ばせた。その結果、School Health Teacher、School Nurse Teacher、School Nursing Teacher、Health Promotion Teacherなど考案した造語はいずれも現実的でなく、実態にそぐわないものであることがわかったとしている。日本養護教諭教育学会でも数年来、同学会名の英語表記について検討を続けているが、未だ集約できていない14)。その理由の一つは養護教諭が教育職員であるという諸外国にない日本独自のユニークな職種であり、一般に通用する類似職名に容易に置き換えられないことにある。また仮に固有名詞を用いてYOGO teacherなどと表記した場合、YOGOをどう説明するかの共通理解がはかられていないという問題がある。まさに養護教諭のアイデンティティの曖昧さ、理論的基盤の弱さが露呈する問題であるといえる。

2.研究の目的

 以上のような問題状況を踏まえ、本研究の目的は、養護教諭の「養護」について史的に検討するとともに、関連分野での「養護」の概念に関する種々の解釈や議論の内容を整理することで、養護教諭の専門職としての独自性や、時代を超えても変わらない養護教諭の核となるものについて展望を見出し、アイデンティティ確立に向けての一定の知見を得ることにある。

 この目的を達成するために、特に以下の点を課題として設定し、検討を行なうことにした。

①「養護教諭」の「養護」と、「養護学校」の「養護」の概念的相違

②養護教諭の職務内容の変遷の要因

③養護教諭の他の職種には見られない独自性

 検討の方法は、先行研究の中でいくつかの代表的なものを基礎資料とし、課題に沿って関連資料や文献、各種紀要や学会に発表された論文等を収集して行なった。

序章で引用した文献

1)小倉学:学校保健と養護教諭の職務、学校保健研究5(1)、1963
2)保健体育審議会答申:生涯にわたる心身の健康の保持増進のための今後の健康に関する教育及びスポーツの振興の在り方について、学校保健研究39、pp457-471、1997
3)滝澤利行ら:ミニシンポジウム養護教諭は保健の授業を担当すべきか、学校保健研究、40(Suppl.)、85-92、1998
4)鎌田文代・中村朋子:養護学校における医療的ケアに関する研究―文部科学省委嘱事業の取り組みから―、茨城大学教育実践研究21、pp171-183、2002
5)特集養護教諭に関わる医療的ケアを考える、健康教室54(1)、東山書房、2003
6)三木とみ子:21世紀の学校教育と養護教諭、日本養護教諭教育学会誌5(1)、pp107、2002
7)後藤ひとみ:21世紀の養護教諭に期待する「職のあり方」、全国養護教諭連絡協議会第7回研究協議会抄録集,33-34、2002
8)砂村京子ほか:日々の対応からみた「養護」に関する研究第1報、日本養護教諭教育学会誌4(1)、15-26、2001
9)小倉学:養護教諭―その専門性と機能―、122-124、東山書房、1970
10)小林育枝:「養護」に関する研究―特に養護教諭との関連で―、学校保健研究、40(Suppl.)、452-453、1998
11)辻立代:「養護学」でなく「保健養護学」として確立を、日本養護教諭教育学会第8回学術集会抄録集、20-21、2000
12)小倉学:前掲書9)pp212
13)鎌田尚子:養護教諭の英名表記と専門性確立に関する一考察、学校保健研究、44(Suppl.)、300-301、2002
14)岡本陽子ほか:「養護教諭」の英訳ワーキング経過報告、日本養護教諭教育学会第10回学術集会抄録集、42-43、2002

第1章 養護教諭の成立と職務の変遷[to top]

 本章では、養護教諭制度の成立過程と職務の変遷をその時代背景とともに分析し、現在の教育職員としての身分がどのように確立されていったのか、またその職務が何によって規定され、どのように変化してきたかを検討する。養護教諭およびその前身である養護訓導の制度史は昭和16年の「国民学校令」に始まるが、そこで「養護」という語を冠した訓導(教育職)として位置づけられ、「児童の養護を掌る」という職務を獲得するに至った理由には、それ以前からの経過や当時の社会状況等の影響があるものと思われる。そのため第一節では、制度確立以前の動向を明治時代後半にさかのぼって整理し、当時の文部省や学校看護婦自身がその身分や待遇をどのように考え、それが制度確立にどう影響したかを検討する。それをふまえて第二節においては制度確立以後の職務の変化を中心に、その変化の要因や課題について考察する。

第一節 養護訓導制定までの経過

 学校看護婦から養護訓導にいたる経過の先行研究としては、杉浦守邦氏の著書「養護教員の歴史」1)が最もよく知られている。本節ではそれを基礎資料としつつ、当時の社会状況を記した文献やその後明らかになった事実や解釈を加えて、教育職としての制度確立にいたる経緯を再検討する。

1. 学校看護婦の登場

 日本で学校衛生制度の整備が始まったのは、1890年代(明治30年前後)といわれる。この時期は日清戦争を経て日露戦争へと向かう時期に当たる。国民生活は窮乏し、度重なる伝染病流行により栄養状態・健康状態は悪化の一途をたどっていた。一方で富国強兵策の一環として、青少年の体力増強が重要課題とされていた。

 1896(明治29)年、勅令により文部省に初めて学校衛生主事および学校衛生顧問制度がおかれた。以来「学校清潔方法規程」「学生生徒身体検査規程」や、「公立学校ニ学校医ヲ置クノ件」(学校医令)が定められ、学校衛生施策が次々と制度化された。当時は学校の施設設備の整備が十分でなく、非常に不衛生な状態であったとされる2)。このため当時の学校衛生は、影響下にあったドイツの学校衛生に範をとり、医学者による教育施設への批判を中心としたものであった。当時制定された学校医職務規程では、「一 換気ノ良否、二 採光ノ適否、三 机腰掛ノ適否、四 前列及最後列ノ机ト黒板ノ距離・・・」といった環境衛生に関する調査と、「生徒ノ身体検査」「伝染病ノ発生シタル時」等への対応が定められている3)。これは当時多発していた伝染病、脊柱彎曲および近視への対策として、環境衛生と身体検査に重点を置くものであった。

 この時期明治政府は義務教育制度の推進のため、就学率向上策をとろうとしていたが、生活の困窮が原因で就学の実態は東京市でも40%程度であったといわれている。学童の多くは皮膚病や眼病を患い、特に日清戦争によって持ち込まれたトラホームは急激に学童に蔓延し、児童の30~80%が罹患していたという。親たちからは「学校に行かせたいが、眼病が移るのは困る」という声が上がった4)。当時の衛生施策による厳重な検診と登校停止を主とした対策はいっそうの登校率の低下を招き、授業に支障をきたす状況であった。そのため、各地で独自の対策がとられるようになった。対策には、学校に治療所を設けるもの、学校職員に技術を修得させて洗眼・点眼させるもの、専門技術者(看護婦)を雇い入れトラホームの治療に従事させるものなどがあった。

 初めて学校に看護婦を校費で雇用したのは岐阜県の小学校2校で、1905(明治38)年のことである。両校はトラホームの罹患率が県平均に比べ著しく高率であった。放課後治療室において看護婦が点眼治療を行なった結果、一方の竹ヶ鼻小学校では罹患率が66.4%(38年4月)から1年半で24.1%(39年9月)まで低下するという著しい治療成績をあげた。同様に翌年岐阜市内に配置された派遣看護婦は、後に市職員の待遇となり28年間も勤務している。

 その後数年の間に、横浜市、大阪府堺市をはじめ、10以上の自治体において公費・私費(学校の奨励会経費等)で看護婦の採用が行なわれた。中には救急処置や身体検査、行事の随伴なども職務とする者もあったが、主要任務はいずれもトラホームの治療であり、勤務形態は巡回やパートタイムであった。

 この時期の動向で注目しなければならないのは、学校医の場合、当初から勅令によって制度的に設置がなされると同時に職務規程が定められていることである。これに対し、学校看護婦はトラホーム対策として地域の要請から自然発生的に設置が始まり、その身分や職務について共通に定めた規程は一切なかった。しかし看護婦としての知識や技術をもって子どもに接すれば、その職務は洗眼処置にとどまらないことは当然考えられる。前出の岐阜市看護婦広瀬ますの回想録「学校看護婦として過去20余年間の私の追憶」には、次のような一文がある。「トラホームが流行して猖獗を呈する逞うして居た時でございましたから、先づ以て其の撲滅を計ると共に、家庭にも之に対する予防手当をなすことの理解を与へるといふ事を第一の目的といたしました。」「何分只今とは違ひまして、世の中に学校看護婦といふものはなく、(中略)何となく地位も不安に感じられた心細いやうな淋しいやうな思ひをしました事も、一度や二度ではございませんでした」5)。また、疾病予防のため「洗顔は、溜め水ではなく流れている小川で洗おう。手ぬぐいは一人一本ずつ布を切って作る」などの衛生教育を行なった学校看護婦の記録もある6)。このように、学校看護婦は当初から不安定な身分の中でも必然的に教育にかかわる仕事をしていたことがわかる。

2.一校一名駐在制の学校衛生婦

 明治末期は日露戦争の時期と重なり、財政的不備を理由に行政整理が行なわれ、学校衛生制度等の廃止も相次いだ。しかし1914(大正3)年から1918(同7)年の第一次世界大戦は一時的に軍需景気をもたらし、大正デモクラシーの風潮の中、学校教育にも欧米式の新教育の思想や社会衛生学が紹介され、大きな影響を与えた。その一方で物価の暴騰などにより庶民の生活は困窮し、統計史上最高の乳児死亡率を記録、欠食児童・虚弱児童の増加、児童生徒の体力の低下、教職員の結核等も問題化した。その結果再び学校衛生が注目されるようになり、イギリス流の社会衛生的施策(学校内診療施設・学校給食等)の導入が検討された。学校看護婦に関してもその施策の一つとして、積極的に取り入れようとする機運がみられ始めた。それには大きく2つの主張があり、一つはドイツの訪問看護婦をモデルとした学童の家庭訪問を主任務とする社会事業的看護婦構想、もう一つは我が国の実情に合わせ1校1名専任制の教育的看護婦構想である7)

 文部省に学校衛生官制が復活した1916(大正5)年、大都市連合教育会総会において後者の構想に基づく「都市小学校に看護婦を置き、学校医と相俟って保健に関する職務を執らしむるの可否」と題する協議題が提案され、可決された8)。この構想が現実のものとなるのはそれから5年後のことである。

 この1922(大正11)年は、学校看護婦にとって一つの転機となった年である。まず、大阪市北区の済美学区6校全てに初めて専任駐在制の学校看護婦が配置され、学校衛生婦と称されることになった。このとき定められた「事務取扱規程」の最大の特徴は、学校看護婦を学校長の指揮下にある学校職員として位置づけたことである。また職務として従来の治療補助や救急手当てに加え、校舎内外の巡視による衛生配慮、家庭訪問、家庭看護法指導など社会的・教育的役割を含む幅広い内容が明記された。雇用と勤務の形態や職務内容から、これが今日の養護教諭に直結する学校看護婦の出現とする研究者が多い。大阪でこれが実現した理由として渡部9)は、既に堺市で学校看護婦規程が作られ、また先の大都市連合会で学校看護婦設置を提案するなど大阪の教育会にその機運があったこと、学校衛生技師(専門学校医)を東京のように十分採用できなかったこと、慈善活動や社会事業が活発な土地柄であったことなどを上げている。また杉浦10)は、すでに制度化されていた学校医の一校専任制の影響と、時の大阪市長池上四郎の英断とを示唆している。

 これに対し東京市では、1921(大正10)年からスラム街の学校を巡回する看護婦を採用している。その目的は貧困児の救済と就学奨励であり、その任務は健康状態の調査、清潔検査、校舎内外衛生検査、家庭訪問と多様なものであった。しかしその身分は大阪の場合と異なり、欧米の学校看護婦と同様に学校に派遣される市役所職員であった。また後には緊急対策のために治療補助者として区で採用される巡回看護婦も多くあらわれた。こうした待遇の違いが後の職制制定運動につながっていくことになる。

 同年、日本赤十字社が学校看護婦派遣を開始した。2名の派遣を受けた文部省はこれを師範学校附属小学校・幼稚園に試験的に配置し、学校看護婦の執務について研究を行なった。このとき定められた勤務心得をみると、校内での地位は明確ではないものの「常に教育者の一人なることを忘れざること、これを徹底せしむるために児童には学校看護婦を先生と呼ばしめること」「学校看護婦は、傷病児の看護、身体検査の補助を為すのみならず、学校設備の衛生、教授衛生、体育運動衛生、身体虚弱者の養護、精神薄弱者の養護、学校及家庭の衛生教育等学校衛生の全般に亘り執務するのみならず、進んで家庭を訪問し、家庭医或は社会的衛生施設と聨絡を取る様努むること」といった教育的・社会的役割が示されている11)。この成果は「文部省学校看護婦年報」として公表された。

 この1922(大正11)年から文部省による学校看護婦の全国調査も行われるようになった。初年度は全国で111名の報告があったが、その職務の実態はトラホーム洗眼のみとする者が多数派であり、学校衛生全般を担当する者はまだ半数に満たなかった。

3. 職務規定提示と設置の拡大

 学校看護婦の増加に対応するため、1923(大正12)年7月、文部大臣官房学校衛生課より「学校看護婦執務指針」が発表された。ここでは学校看護婦の業務を校内勤務と校外勤務の二つに分け、前者では「概ね学校医執務の補助者として働くもの」(傍線筆者、以下同)であり「濫りに独断専行せざるよう心掛くべきものとす」と位置づけたうえで、従来のトラホーム洗眼にとどまらず児童および校内各所の視察、身体検査や衛生教育の補助などの幅広い任務を示している12)。後者については「学校医の自ら、生徒児童の家庭を訪問するは至難事に属し、教師の家庭訪問も衛生事項の連絡に及ぶこと十分ならざるを常とす」として学校看護婦による家庭訪問を重視している。しかし大阪市のような教育的任務をもつ教育職員とは扱われていない。

 同年11月、全国学校衛生主事会議において、文部大臣諮問「学校看護婦の適当なる普及方法及職務規程如何」の答申として「学校看護婦職務規定」案が示された。これは翌年、各地方庁へ職務規定を定める際のモデルとして配布された。この答申では一転して学校看護婦の身分を「学校長の監督を受け」「勤務は校規の定むる所に従ひ、教員に準ず」と示し、教育職員と位置づけている。その職務にも学校医の職務の補助のほか、「必要により家庭看護法の実習指導をなすべし」として教育的任務が加えられている。先の「指針」と同じ年に文部省から示されながら、双方の内容がこれほどに異なる理由については明らかではないが、同年の巡回看護婦配置の失敗が影響しているのではないかと推察される。この年6月、日赤から文部省に3人目の看護婦が派遣された。文部省は欧米のように「学校を巡回して主に家庭訪問に従事する役場吏員」としての学校看護婦の検討のため、この看護婦を渋谷町役場に勤務させ、8校の学童の家庭訪問に当たらせた。しかし結果は家庭の理解が得られにくく受け入れがよくなかったため、半年で廃止となったのである。こうした状況から、今後学校看護婦を学校職員として位置づける方針を固めたのではないかと考えられる。

 この1923(大正12)年には、文部省学校衛生課長北豊吉が欧米の学校衛生事情視察から帰国し、「今後日本において学ぶべき施策は、学校看護婦の普及とスクールクリニックの開設、および学校給食の徹底にあり」として学校看護婦の設置も積極的に奨励した。11月の諮問もこの一環と思われるが、これ以降、各地で学校看護婦の設置規則や執務規定が制定され、全国的に学校看護婦が急激に増加していった。その数は3年後の1925(大正14)年に約5倍の504名、6年後の1928(昭和3)年には10倍の1199名となった。資格は大多数が看護婦免許所有者であったが、有資格者の不足や、教師兼務を意図して、女子師範学校生や高等女学校卒業者に専門研修を行なって採用する府県もあった。文部省は1924(大正13)年から毎年、現職の学校看護婦やその希望者を対象に学校衛生講習会を実施し、その養成に努めた。しかし地域の状況により採用者の身分、職務はまちまちであり、その名称も「学校衛生婦」「学校看護手」「医務補」などさまざまであった。

 この前後、「学校衛生主事会議」や「全国連合学校衛生会総会」等で相次いで学校看護婦の設置に関わる答申が出された他、大正13年の学校看護婦調査の報告の中に、次のような一文が見られ、学校看護婦への期待の高まりを見ることができる。「・・・従来は身体検査、トラホームの健診及び治療、学校設備、巡視等をもって学校衛生の全部とみなし、且つこれに従事するものも主として学校医なりしが、近時学校衛生の範囲は教授衛生、体育運動、心身薄弱者の養護の学校給食等に及び学校医、学校教員が協力してこれに当たることとなり或は学校看護婦を設置して学校衛生の実務を行わしむるもの漸次その数を増加するに至れり。学校看護婦は学校衛生の実務者にして、学校医を助け且つ学校教員と協力して学校衛生の全般にわたり実地の仕事をなすものにして、この設置が普及するにいたらば学校衛生の面目は一新し著々良効果を挙ること疑を容れず・・・」。

 またこの時期学校看護婦に新たに期待されるようになった任務として忘れてならないのは、病弱・虚弱児の養護である。1926(大正15)年、養護学級が開設された東京市鶴巻小学校に日赤派遣の学校看護婦が配置され、その執務について研究を行なった。その結果、学校看護婦は学校全体の保健衛生部門の活動とともに養護学級において家庭訪問や特別養護の担当者として重要な役割を果たした。この成果は後に国民学校令で養護学級制度が正式に発足した時、養護学級設置校には必ず養護訓導を置くことにつながったと考えられている。

4. 文部省訓令「学校看護婦ニ関スル件」の公布

 1928(昭和3)年、文部省の外郭団体である帝國学校衛生会はその内部組織として「学校看護部」を新設した。全国で1000名を超えた学校看護婦の組織化をはかり、学校看護事業の発展を図ろうとするものであった。事業は月刊誌の発行と全国学校看護婦大会の開催であった。機関紙「養護」は、学校看護婦の職業観・使命感の樹立を目標とし、文部省関係者の意見や講演記録、現場報告等が掲載された。1929(昭和4)年に開催された第1回全国学校看護婦大会では、文部大臣諮問事項「我国の現状に鑑み学校看護事業の発達上特に留意すべき事項如何」に対し設置規程の制定等を要望する答申を採択したほか、協議題として「学校看護婦は学校職員なりや又は市役所吏員なりや」といった疑問なども提出された。この大会は官製的な性格を持つものであったにも関わらず、当初から参加者側から身分待遇の問題点と改善の要望が多数出され、職務制定確立運動として年々高揚していった。

 同1929年、文部省訓令をもって「学校看護婦ニ関スル件」が公布された。これは規準制定を要求する声に応えて、国として初めて法的に学校看護婦の位置づけや職務を示したものである。その位置づけは「学校衛生に関しては学校教職員、学校医主として之に従事すと雖も・・・学校看護婦をして其の職務を補助せしめ・・・」「学校長、学校医其の他の関係職員の指揮を受け・・・」など、自律性を持たない補助的立場に置かれ、先に「学校長の監督を受け」とされた学校看護婦職務規程より教育職員としての性格が曖昧になっている。職務は医学的職務(疾病予防、診療補助、救急処置、身体検査、環境衛生等)、教育的職務(監察を要する児童の保護、衛生訓練等)、社会的職務(家庭訪問、治療矯正の勧告、診療の同伴等)の内容が含まれていることは注目できる。この訓令は不統一だった各地の制度に大きな影響を与えたが、身分や待遇については十分な規定がなされず、課題として残された。

 その理由について、当時文部省学校衛生官の大西永次郎は「学校看護婦のやうに、未だ発達の過渡期にあるものに対しては、初めから制度上の完全を期するといふことは少なからぬ無理もあり・・・今暫くは、ほんの業務上の要項を定むるに止め、資格等についても厳格な制限を設けないほうが却って時代の要求に沿ふ所以かも知れません。」と述べている。杉浦はその理由を、「身分に関する規定は、勅令またはこれに類する法律等をもって制定すべき重要な事項とされるものであって、そのためには事前に十分関係各省の同意を得て・・・その必要性が一般に十分認識されていることが不可欠である」ものの、当時の学校看護婦の設置数や設置規定を定めた府県がまだ十分多くなかったためだろうと分析している13)。また当時の社会情勢は、ファシズム体制に向かって軍事費が膨張し、緊縮財政のため新規事業は中止または延期という状況であった。国民は世界恐慌の影響もあり生活が逼迫し、粗食児童や欠食児童はますます増加していた。制度としての位置づけができなかったのはこうした財政的な問題も無視できないものと思われる。

 5. 勅令案の停頓と、「養護婦」令

 1934(昭和9)年、遂に文部省は学校衛生調査会に諮問し、学校看護婦に関する勅令案を検討させた。ここでは「学校看護婦は学校長の監督を承け学校衛生の実務に服すること」と明確に教育職員待遇とし、小学校教員に準じて検定により専門免許を与える制度を打ち出した。この背景には、1931(昭和6)年の満州事変以後の戦時体制により、国民体力の向上、特に青少年の体位向上や結核予防が国政の重要方針となり、学童に対する学校看護婦の任務(当時は眼病や皮膚病の治療・救急訓練等に加え、虚弱児童への肝油服用・太陽灯照射等でも多忙を極めていた)がクローズアップされてきたという社会情勢があげられる。それに加えて、全国で2400名に増加した学校看護婦たちによる5年来の草の根運動に対し、当時の鳩山文部大臣らの理解と決断があったためといわれている。

 この勅令案は、国家資格である看護婦との混同を避け、名称を「学校衛生婦令」として答申された。しかし文部省内では「学校衛生の実務」という学校衛生婦の職務が教育内容であるのか、またそれを単行勅令で規定することが適当かという議論、地方財政当局からは、新しい職制の採用は地方財政支出の増加につながるとの異議、衛生当局からは看護婦規則との調整に疑義が出され、協議が難航した。そして間もなく推進派であった鳩山文相の突然の辞任により、棚上げとなってしまった。この事態を憂慮した全国の学校看護婦は、職制促進連盟を組織し、帝国議会議員を連日訪ね職制制定の建議を働きかける要請活動を活発に展開した14)。この話題は新聞やラジオでも取り上げられ、全国の学校衛生団体や校長会、教員会、学校医会などからの陳情も相次いだ。

 1938(昭和13)年、再び勅令案が起草された。この案では名称を「学校養護婦」とし、職務の中にも養護という文言を加え、「学校に於ける衛生養護に関する職務に従事す」とされた。ここで「養護」という表現が出されてきた理由として杉浦は次の3点を挙げている。第一は前年の学校身体検査規程の改正である。ここでいっそう強調された要養護者の選別とその者への「保健養護」の担当者として、学校看護婦が考えられたためである。第二は同年1月に厚生省が発足し、学校衛生関係者の指導助成と学童の養護に関する事項以外は所管が文部省から厚生省に移管したことである。養護に関することが文部省に残されたのは、養護が教育的活動とみなされたことを意味し、「養護婦」とすることで教育職員としての性格を明確にしようとしたと考えられる。第3は同時期に厚生省で検討中であった「保健婦」と混同しやすい名称を避けたためであるという15)

 勅令案は再び厚生省と内務省の激しい抵抗にあった。当時の学校衛生雑誌では「(厚生省)衛生局は身分上、同省体力局は体位向上上、又同省予防局は児童生徒の治療上等の見地から容易に同意するの景色なく・・・茲に暫く停頓の状態となった」と記されている。また関係者〈文部省学校衛生係長大西永次郎〉の談として、「文部省は学校養護婦が学校に奉職する関係上、教育職員とみなし、厚生省の方では学校養護婦といえども、保健衛生関係の職務を司る以上、衛生職員であるとの見解を有し・・・」と伝えている。

 全国学校衛生婦連合会は再び世論を巻き込んだ大規模な請願活動を継続した。その結果、厚生省との間で学校養護婦の職務内容を治療補助面より教育指導面におくことで文部省所管とするという合意を得た。厚生省管轄の看護婦・保健婦と文部省管轄の養護婦とが分離されることとなったのはこのときからである。

 法制局では、学校養護婦の職務が教育の内容かどうかという問題が再び出された。これに対しては、半年前に答申されたばかりの教育審議会「国民学校ニ関スル要綱」の次の一項が生かされた。

  九 心身一体の訓練を重視して児童の養護、鍛錬に関する施設および制度を整備拡充

   し左の事項に留意すること

  〈三〉学校衛生職員に関する制度を整備すること

すなわちこの「学校衛生職員」とは学校看護婦であり、国民学校の重要課題である「児童の養護・・・の整備拡充」にあたることから、その職務は教育の内容であるといえること。そしてそれを明確にするために、職務内容を「児童の養護を掌る」に変更する、ということで決着した。その後も帝国議会で「学校養護婦令制定ノ請願」が採択され「養護婦令近く発令されん」とまで報道されたが、最終的にこれを単行勅令で定めることについての了解は得られず、結局再び法制化は先送りとなった。

6. 国民学校令における養護訓導制度確立

 国民学校令の草案作成の時期、その基本的考え方を示した「国民学校の教育方針10か条」には、「心身ヲ一体トシテ教育シ教授、訓練、養護ノ分離ヲ避クルコト」という項目があった。「養護」は教授、訓練と並ぶ教育の内容の一つとされ、これにより養護を担当する職員が教育職である明確な根拠が示されたことになる。そしてこれに続く勅令案の検討の中で、職名は学校養護婦ではなく「養護訓導」と定めることになった。当時の文部省学校衛生課係官荷見秋次郎は「児童の衛生養護は純然たる学校教育の内容として、当然文部省における教育官吏の重要事項と認むるの必要が痛感せられて、養護職員も学校教員と同一待遇において審議せらるることになり、遂に本年3月、国民学校令の公布とともに、養護訓導として名実共に、従来の学校看護婦の旧殻を脱して、新たなる脚光の中に、その出発を見るに至った」と記している。

 こうして1941(昭和16)年、ついに国民学校令第15条に「国民学校ニハ学校長、訓導ヲ置クベシ 国民学校ニハ教頭、養護訓導及ビ准訓導を置クコトヲ得」、第17条に「訓導及養護訓導ハ判任官ノ待遇トス」「養護訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ児童ノ養護ヲ掌ル」との規定がなされた。これが現在も唯一養護教諭の職務を規定する学校教育法第28条の「養護教諭は養護をつかさどる」に直接つながるものであり、養護教諭の歴史において最も重要なターニングポイントとなる。「学校看護婦養護訓導となる」と報道された日の関係者の喜びようは「全国職制促進連盟加入県からは祝電、私の東郷小学校では母親が赤飯を焚き、全職員は花束を下さって、おめでとうの洪水であった。・・・(協力者だった詫摩武彦先生の)奥様は黒紋付の羽織を着て、万歳、万歳と両手を挙げて長い廊下を走って、私たちと固い握手を交わした」との記録がある16)

 ここで養護婦が急に養護訓導へと三たび名称が変更された理由についは内閣法制局との話し合いの結果とされているが17)、その背景について杉浦は次のように分析している18)

・「教育ヲ掌ル」のが訓導なら、同じ教育者として「養護ヲ掌ル」のは養護訓導とした。

・虚弱児対象の養護学級設置にあたり、その養護担当職員の職務は教育の内容であるから、養護訓導と称するのが妥当である。

・義務教育費国庫負担法の適用を受けるためにも訓導身分が必要である。

・新しく必修科目として設けられる「体錬科」の内容に「衛生」があり、その一部を養護担当職員にも分担させる予定であったため、訓導身分が妥当である。

 同様に要因を6つにまとめて分析した数見19)は、「養護-鍛錬」を一体化した「皇国民錬成」の戦時体制づくりのため政策的に養護概念を使用した(軍部の要求があった)のではないか、また制度確立を求めた学校看護婦たちの運動が当時の国策と一致したのではないかということも挙げている。また同じ論文の中で数見は、学校看護婦たちが教師との間にある差別的待遇に強い不満を持ち、教師と同等の待遇を強く求めてはいたが、教職としての位置づけを求めた記録がほとんどないことを指摘し、この職種転換は最終的には国家体制の意図に組み込まれたものであったと分析している。また森20)は教育学の視点から、その他の要因を2つ挙げている。まず、第一次新教育運動の台頭に伴い「学校の生活化」が課題とされる中で、学校衛生を教育の内容ととらえ、教育の中に位置づけようとする「教育としての学校衛生」構想の影響があった、第二に学校経営近代化を背景として教育を分業と共同という形をとる体制がとられるようになってきたことを挙げている。

 1942(昭和17)年7月、文部大臣名で地方長官に対し「養護訓導執務要項」が訓令され、昭和4年の「学校看護婦に関する件」は廃止された。その内容の特徴として、以下の点が挙げられる。

・学校医の指導は医務に関してのみ受けるとされ、養護訓導の自律性が示された。

・「心身ノ状況ヲ査察」、躾・訓練の衛生分野への関与など、教育的任務を重視した。

・要養護児童の特別養護を項目にかかげ、養護学級設置校または養護学校には養護訓導を必置とした。

・従来の看護的職務を大幅に削って救急看護に限定した。

・家庭訪問に関する職務を軽減し、近く発足予定の保健婦制度との差異を明確にした。

 1943(昭和18)年には国民学校令の一部改正が行なわれ、第15条で養護訓導は国民学校に必置となった。そして俸給等が国庫補助を受けられるようになり、養護訓導の数は倍加していった。

第2節 養護教諭の職務の変遷

 1941(昭和16)年にようやく養護訓導として制度が整った後、現在の形で定着するまで、職務や専門性について、養成方法も含めさまざまな検討がなされている。本節ではそれらを整理し、現在に残されている課題及び新たに生じてきた課題について明らかにする。

1.養護訓導から養護教諭へ―制度上の課題―

 終戦直後は、国民の著しい体力低下、結核・寄生虫・頭ジラミ・疥癬・伝染病などの蔓延がみられ、緊急な衛生対策が迫られた。学童の健康復興のために養護訓導にも大きな期待が寄せられた。養護訓導は国民学校令による免許状制度により、従来の学校看護婦からの切り替えが続々と行なわれていたが、昭和20年度の国民学校の数2万に比べ養護訓導は1750名にすぎず、全く追いつかない状況であった。そのため1946(昭和21)年に文部省体育局長名で出された「学校衛生刷新に関する件」の通牒には、以下のように養護訓導の緊急増員も勧告されている。「国民学校における養護訓導の設置及養成に関しては戦時中之が要因不足のため未設置の学校少からざるも、可及的速かに一校に付少なくも一人の養護訓導を設置するよう努むること」「例へば復員せる養護訓導有資格者の採用、並に高等女学校卒業者にして看護婦免許状を有する者に対する養成講習会の開催、又は文部大臣指定の養成機関の設置等により之が普及を図ること」21)

 一方、終戦後進駐して来たアメリカ軍政部当局(GHQ)による干渉は、教育職員としての養護訓導制度を危機に直面させた。公衆衛生福祉局(PHW)の担当者はアメリカ流スクールナース(パブリックヘルスナース)に固執し、養護訓導を廃止し保健婦に切り替えるか、それが不可能ならば養護訓導は保健婦の指導下に入るように、また学校保健は厚生省の管轄に入れるべきであると強硬に主張した22)。教育関係の主管が民間情報教育局(CIE)であったことと、文部省の強い反対のために結果的には主張の多くが見送られた。しかし1946年の国民学校令施行規則の一部改正の際、訓導が「地方教官」と改称されたのに対し、養護訓導は「地方技官」とされ、一時的ではあったが保健技術者の扱いとされることになった。

 1947(昭和22)年、国民学校令が廃止され、代わって学校教育法が施行された。最終的には養護訓導は「養護教諭」と改称され、第28条に「養護教諭は、児童の養護を掌る」と規定された。しかしGHQの影響は1949(昭和24)年に制定された「教育職員免許法」と「中等学校保健計画実施要領(小学校は1951年に刊行)」に残され、後の養護教諭の養成や職務の発展に大きな遅れをもたらすことになる。

 「教育職員免許法」においては、教員の普通免許状は、原則的に学士の基礎資格を有し、大学卒業者に対して与えられる。すなわち教員の養成は大学において行われることになったのである。しかし養護教諭の場合はこれと全く異なり、看護婦免許を有しない者は認められないとするGHQの意向により、看護婦免許状を基礎資格として一定期間指定機関に在学するか、もしくは保健婦免許所有者に、養護教諭免許が与えられる制度となった。したがって養護教諭養成は独自の課程を有する大学ではなく、厚生省の管轄である看護婦・保健婦の養成に依存しなければならなかった。しかし当時は病院併設の看護学校による小規模な看護婦養成が主流であり、緊急な養護教諭増員要請に応えられるものではなかった。当面十分な有資格者を得られない可能性が予想されたことから、学校教育法第103条には「養護教諭についての特例」として、「小学校及び中学校には、・・・当分の間、養護教諭はこれを置かないことができる」という条文が付された。今日に至ってもこれは撤廃されず、養護教諭の完全配置の確立を妨げる要因となっている。

 1953(昭和28)年、GHQの占領が解かれて、教育職員免許法の改正が行なわれた。このとき看護婦免許によらない養護教諭養成コースが新設されることになったが、制度的なスタートの遅れが尾を引き、四年生の大学課程で養護教諭の養成が本格的に始まったのは大幅に遅れて1975(昭和50)年のことであった。また従来の養成方法はほとんどそのまま残されたため、養護教諭の養成はきわめて多様な方法によって行なわれることとなった(Table.1-1)。このうち教育学や養護に関する専門科目の履修がなくとも保健婦免許のみで養護教諭免許状が取得できる制度は現在も(二種免許とはいえ)まだ残されており、養護教諭の学校教育における専門性という点で問題がある24)

   
     Table.1-1 養護教諭の免許状資格要件の変遷 (三木とみ子23)を一部改編)

 「中等学校保健計画実施要領」「小学校保健計画実施要領」は、1949(昭和24)年にCIEの助言により作成された試案である。その中で問題となったのは、「養護教諭の職務の項目」と「保健主事制度」である。(「養護教諭の職務の項目」については後述する。)「保健主事制度」は当時アメリカにあったヘルスコーディネーターの制度を参考にして「保健計画実施要領」に盛り込まれたもので、1958(昭和33)年の学校保健法制定に伴って制度化された(現在アメリカではこの制度はすでにないようだという25))。その職務は当初「保健活動の調整に当たること」とされ、適任者として養護教諭も挙げられていた。しかし1960(昭和35)年の学校教育法施行規則の一部改正により「保健主事は教諭を持ってこれに充てる」、職務は「保健に関する事項の管理に当たる」となった。また文部事務次官通達で教育委員会が保健主事の任命をすることとなり、この結果、学校によっては保健主事が学校保健に関わる主導権を握り、養護教諭が職員会議に出席できず保健主事が一切の提案を行なう、養護教諭の出張は保健主事の許可を要する、文書の収受・保健日誌などの検閲、学校保健行事の実施を保健主事が養護教諭に命令する26)などといった、養護教諭の自律性を否定するような問題がみられるようになった。現場の声におされて保健主事の制度化を止めた自治体もあったが、混乱は続いた。1995(平成7)年になって同規則は「教諭または養護教諭を持ってこれに充てる」と改正された。これは「いじめの兆候に気づくことが多い養護教諭を保健主事に充てる」という「いじめ対策緊急会議」の提言を受けたものである。養護教諭の中にはこれを歓迎する声と主事制度そのものの撤廃を求める声とが混在しており、実際に保健主事を受けた養護教諭も少なく、問題は解決を見ていないといわれている。

2.職務研究の展開

 養護教諭の制度化は、制度的には身分を確立させたが、教育現場における意識改革はなかなか進まず、また養護教諭自身も職務内容やそれについて理解を求める手だてについて悩んでいる実態が専門雑誌にしばしば掲載された。こうした課題に対して、「養護をつかさどる」の示すものについて明らかにし、職務の確立をはかろうとする試みが行なわれるようになった。

 以下、そうした職務研究の動向を分析した藤田27)の論を基に整理を行なう。

 藤田は、養護教諭の職務研究は、おおむね「執務論」→「本務論」→「専門性論」→「実践論」という展開がなされてきていると分析する。

 「執務論」とは、執務項目を具体的に列挙しながら職務を規定していく方法で、かつて文部省が「学校看護婦執務指針」「養護訓導執務要項」などの形で規定したように、養護教諭の執務について試案も含めさまざまな項目が提示されてきた。(これを内容別に整理してみたものがTable1-2と1-3である)。

 制度が未確立だった学校看護婦時代から養護訓導、養護教諭に変わってしばらくは、その職務もまちまちであり、一定の基準が求められたのは当然のことであった。文部省は1949(昭和24)年の「中等学校保健計画実施要領」において、戦後初めて養護教諭の職務を示

 


Table 1-2 学校看護婦・養護訓導の職務規定

 

 

 

学校看護婦執務指針(1923)  文部大臣官房学校衛生課発表

学校看護婦ニ関スル件(1929)

       文部省訓令第21号

養護訓導執務要項(1942)  

     文部省訓令第19号

 

位置付け    身分  

概ね学校医執務の補助者として働くものなるを以て・・・

学校看護婦ハ学校長、学校医其ノ他ノ関係職員ノ指揮ヲ受ケ概ネ左ノ職務ニ従事スルコト

養護訓導は児童の養護のため・・・執務すること              養護訓導は医務に関し学校医、学校歯科医の指導を受けること

 

学校保健計画に

関して

 

 

 

 

学校保健組織活動に

ついて

 

 

養護訓導はその執務に当たり常に他の職員と十分なる連絡を図ること

 

学校環境衛生に

関して

設備衛生の視察

 校地、校舎其ノ他ノ設備ノ清潔、採光、換気、煖房ノ良否等設備ノ衛生ニ関スルコト

学校設備の衛生に関する事項

 

学校給食に
関すること

学校給食の介補

身体検査、学校食事ノ補助ニ関スルコト

学校給食その他児童の栄養に関する事項

 

健康診断に
関すること

身体検査の補助

身体検査に関する事項

 

健康相談に
関すること

 

 

健康相談に関する事項

 

疾病予防に
関すること

 

疾病ノ予防、診療ノ介補、消毒、救急処置及診療設備ノ整備並ニ監察ヲ要スル児童ノ保護ニ関スルコト

疾病の予防に関する事項

 

疾病を有する児童に

関すること

 

要養護児童の特別養護に関する事項

 

個別の保健指導に

関すること

 

身体、衣服ノ清潔其ノ他ノ衛生訓練ニ関スルコト

養護訓導は常に児童心身の状況を査察し特に衛生のしつけ、訓練に留意し児童の養護に従事すること

 

集団の保健指導に

関すること

衛生教育の補助           調査事務及び講話の補助

学校衛生ニ関スル調査並ニ衛生講話ノ補助ニ関スルコト

 

救急処置に
関すること

病気の治療及び診療設備の整理

救急処置

救急看護に関する事項 

 

保健室の整備・運営に

関すること

 

 

 

家庭訪問に関すること

家庭訪問 

家庭訪問ヲ行ヒテ疾病異常ノ治療矯正ヲ勧告シ又ハ必要ニ応ジテ適切ナル診療機関ニ同伴シ或ハ眼鏡ノ調達等ノ世話ヲ為シ尚病気欠席児童ノ調査、慰問等ヲ為スコト

養護訓導は必要ある場合においては児童の家庭を訪問し児童の養護に関し学校と家庭との連絡に力むること

 

その他

児童の視察 体育運動の視察 教授の視察             運動会、遠足、校外教授等の勤務

運動会、遠足、校外教授、休暇聚落等ノ衛生事務ニ関スルコト 学校看護婦執務日誌其ノ他必要ナル諸簿冊ヲ学校ニ備フルコト 其ノ他ノ学校衛生ニ関スルコト

学校歯科に関する事項       その他児童の衛生養護に関する事項


Table 1-3 養護教諭の職務内容(試案)の比較

 

学校保健法解説書(1958)   いわゆる16項目

日本学校保健会養護部会(1964)  いわゆる11項目

文部省主催養護教諭中央研修会で示した指針(1995)

位置付け 身分  

 

 

 

学校保健計画に

関して

学校保健計画の立案に協力する

学校保健計画の立案に参画する

学校保健に関する各種計画及び組織活動の企画、運営への参画及び一般教職員が行なう保健活動への協力に関すること

学校保健組織活動に

ついて

学校保健委員会または児童・生徒等の保健委員会の運営に協力する。

学校保健活動に参画しその運営に協力する。

学校環境衛生に

関して

学校環境衛生の維持および改善に留意し、必要な実際的な助言を行い、及び環境衛生検査に協力する。

学校環境衛生の維持改善につとめる

学校環境衛生に関すること

学校給食に

関すること

学校給食の施設、設備の衛生とその維持について必要な助言を行い、及び食物の栄養と衛生に関し指導、助言を行なう。

学校給食の衛生管理に当たる

 

健康診断に

関すること

児童生徒の健康診断の準備をし、且つ実施を補助する。

健康診断の実施計画に参画し、必要な検査にあたる。

健康診断、健康相談、健康相談活動に関すること

健康相談に

関すること

法第11条の規定による健康相談の準備をし実施を補助する。

健康相談の実施計画並びに運営にあたる。

疾病予防に

関すること

学校医の指導監督の下に学校における伝染病・食中毒の予防処置に従事する。

疾病の予防の管理と指導にあたる

伝染病の予防に関すること

疾病を有する児童に

関すること

児童・生徒の疾病異常の発見、健康観察に従事し、疾病異常の児童・生徒に対する保健指導に従事する。            身体虚弱の児童・生徒に対する保健指導に従事する。

 

保健指導に関すること (1)心身の健康問題を有する児童生徒の個別指導・健康相談活動 (2)健康生活の実践に関して問題を有する児童生徒の個別指導

個別の保健指導に

関すること

 

集団の保健指導に

関すること

職員の行なう保健教育に対し、協力する。保健教育に必要な資料、記録等の整備を図る。

保健教育に協力する

保健指導に関すること(1)学級活動やHR活動での指導(2)学校行事での指導

救急処置に

関すること

児童・生徒の救急処置に従事する。

救急看護にあたる

救急処置及び救急体制の整備に関すること

保健室の整備・運営に

関すること

保健室の設備・備品の整理につとめ、健康診断、救急処置等のための器具、薬品等の管理にあたる

保健室の整備につとめ、その運営にあたる

保健室の運営に関すること

安全に関する

こと

 

安全の管理と指導にあたる

 

家庭訪問に関する

こと

必要に応じ、児童・生徒の家庭訪問を行い、保健指導に関し必要な指導・助言を行なう。

 

 

その他

保健室の書類、記録、資料等の整備に努め、整理整頓を行なう。

 

学校保健情報の把握に関すること                   その他必要な事項


した。しかしその内容は、戦前の養護訓導執務要項に比べて、専門性、自律性の尊重という点で後退したものであった。まず「養護教諭は・・・児童の看護及び保護を受け持つ」としたうえで、全15項目(小学校は16項目)のうち9項目までが「助けをする」「協力する」「補助する」といった補助的職務 (例えば、学校身体検査の準備をしその実施を援助する、学校医の指導の下に保健所と協力して伝染病の予防について補助する、健康教育に協力する、など)であった。その他の項目も「助言を与える」(例えば、健康に関する記録を整備しこの資料を有効に活用するよう教師に助言を与える)という内容であり、専門職としての主体性や独自性が非常に限定された消極的な位置づけであるといえる。占領下という条件にあったとはいえ、当時のアメリカのスクールナース制度を翻訳してそのまま紹介されたものではないかといわれている。

 この15項目に続いて1958(昭和33)年には、学校保健法の制定に伴って発行した「学校保健法の解説」に、保健体育課主事(当時)荷見秋次郎の見解とされる16項目が示された。しかしこれも前述の15項目同様に「協力する」「補助する」という項目が多く、養護教諭の自律性のあらわれた項目は4項目だけであるという指摘がある28)。そのため、それらに対する批判や修正の意味で、日本学校保健会養護教諭部会の11項目(1964)や国立養護教諭養成所協会の8項目(1973)などが提案された。しかし執務項目の羅列は「教育的機能のとらえ方の弱さや仕事の核心は何かということへの答えは必ずしも十分に出されているとは言いがたい」と藤田29)は指摘する。

 「本務論」は、現実の執務の煩雑さや多様さの中から雑務を取り除き本務を明確化することで職務の確立を目指そうとした方法である。1960年代を中心に職務の実態調査やタイムスタディ研究による職務分析などが盛んに行われた。しかし基本的には「執務論」と同様の職務把握の方法と変わらないものであり、再び「本務は何か」の堂々めぐりに陥っていたとされる。

 「専門性論」は、養護教諭の専門性を理論的に明らかにしようとしたもので、これには1960年代の小倉と1970年代の杉浦の研究が挙げられる。これについては第2章第3節でも述べるが、このとき小倉は、従来の執務項目列挙の反省から、「養護」の内容を機能として分析的にとらえ、新たに13項目(1966)・10項目(1969)の試案を提案した。さらにその体系化をはかり6つの機能を提示した30)

 そして1980年代に入って、藤田は「養護教諭にとっての教育実践」を子どもの発達保障にとっての意義と役割という視点で分析しようと「実践論」を提唱した31)。また近年になって大谷、三木らが「養護学」構築に向けて、養護教諭の固有性を追及する新しい研究を開始している32)33)

 一方執務項目の列挙とは別に、国として養護教諭をその役割や機能の面からとらえたものに、1972(昭和47)年に文部大臣の諮問機関である保健体育審議会が行なった「児童生徒等の健康の保持増進に関する施策について」の答申がある。そこでは「学校における保健管理体制の整備」の項を設けて、学校保健関係組織や職員の充実を提言し、その中で養護教諭について次のように述べている。「専門的立場から全ての児童生徒の保健および環境衛生の実態を的確に把握して、疾病や情緒障害、体力、栄養に関する問題等心身の健康に問題を持つ児童生徒の個別の指導に当たり、また、健康な児童生徒についても健康の増進に関する指導にあたるのみならず、一般教職員の行なう日常の教育活動にも積極的に協力する役割を持つものである」。すなわち養護教諭は、専門的立場から実態を把握し、心身の健康問題の有無にかかわらず、健康の増進に関する指導を行い、教育活動に協力する役割とされている。これ以降、保健室での個別のかかわりをはじめ、学級や全校を対象にした集団指導も含め、さまざまな形での健康教育に主眼をおいた養護教諭の実践が多く見られるようになる。

3.児童生徒の実態の変化

 養護教諭の職務内容の変化は、社会環境の変化に伴って変化する児童生徒の心身の健康実態と強く結びついていると思われる。戦後のその変遷をトピック的に概観する。

 終戦後の劣悪な環境と食糧難は、学童の著しい体位の低下や健康状態の悪化をもたらし、養護教諭の職務も、現実にはそれらへの対応に追われるものであった。戦前から引き続いてのトラホーム洗眼、寄生虫対策として海人草(駆虫薬)を煎じて飲ませたり、検便を実施したり、疥癬治療の軟膏塗布、DDTによるシラミ退治、衣服の煮沸消毒、脱脂粉乳の給食補助、結核や発疹チフス、日本脳炎等の伝染病対策などが主な仕事であった34)

 1958年に学校保健法が制定された。それまで養護教諭が自主的に実践してきたさまざまな健康管理活動に法的根拠が与えられ、健康診断も新しい方法で行なわれることになった。 1960年代から1970年代にかけて、衛生環境も整い、生活様式も大きな変化を遂げると、児童の健康問題に変化が現れた。文部省学校保健統計調査の結果を見ると、結核や寄生虫が減少していく一方で、むし歯、肥満、視力低下などが増加傾向にあった。砂糖消費量の増加、インスタント食品やテレビ、自家用車の普及、空き地の減少、受験戦争など、高度経済成長に伴う社会環境の変化がもたらした食生活の偏り、運動不足、不規則な生活などが原因と思われた。養護教諭は受診指導とともに、生活点検35)、歯科保健指導、肥満児指導、遠方凝視訓練など、それまでとは異なる保健指導に取り組むようになる。

 さらに1970年代から1980年代には、「いすに座っていられない、朝からあくび、背中ぐにゃ、転びやすい、転ぶと骨折」など、子どもの体のおかしさ、体力の低下が大きな問題として取り上げられるようになった36)。このような子どもの実態の変化は養護教諭が保健室で出会う子どもたちの様子からも実感できることであった。そしてこのような病気とはいえないが、健康ともいえない不健康な子どもの増加にたいしては、それまでの医療的対応では十分でなく、自分の身体の様子を自覚して、より健康に生きようとする子どもに育てなければならないとする考えが養護教諭の間に広まった。そのためにはまず子どもの心身の現実をつかみ、それに応じた実践課題を持つことの重要さが認識された37)。そして「からだの学習」などで、身体の認識に働きかける健康教育にとりくむ養護教諭や、家庭や地域と連携しながら子どもたちを健康に育てようという教育実践に取り組む養護教諭もあらわれた。そして保健室でていねいに子どもと向き合い、子どもの姿や思いを受け止め、それに寄り添ったかかわりをするのが養護教諭の本質であるという認識が徐々に広まっていった。

 1980年代には「おちこぼれ」「ツッパリ」などの言葉が生まれ、少年非行が社会問題化した。保健室には健康問題だけではないさまざまな問題をかかえた子どもがたくさん訪れるようになった。養護教諭はそうした児童生徒の声に耳を傾け、支えるよう努めたが、必ずしも教職員の理解が得られず、学校によっては保健室が「たまり場」との批判を受け、保健室閉鎖という事態も生じた。また互いの身体や命を大切にする心をはぐくむことを企図して、従来の純潔教育とは異なる、男女共修の性教育にとりくんだり、学校全体の健康教育を推進しようとする養護教諭も増えてきた。

 90年代になるとさらに「テレクラ」「援助交際」など性に関する問題や、生活習慣病、薬物乱用、いじめ、不登校といった新しい問題が生じ、保健室登校という用語も一般化する。子どもの心を受け止めてきた保健室は「駆け込み寺」「心の居場所」などとも表現され、養護教諭に対する父母の期待もみられるようになってきた。1996年には「いじめ対策緊急会議」の提言を受けて、臨時養護教諭全国会議が開催され、文部大臣より「いじめ」ヤ「キレル」子どもへの対応や、子どもの心身の健康な発達のため、校内のセンター的役割への期待が述べられた。これは養護教諭を中心として学校全体での相談活動体制の充実をはかることの重要性を強調するものである。

4.新たな課題

 1997年、25年ぶりとなる保健体育審議会により「生涯にわたる心身の健康の保持増進のための今後の健康に関する教育及びスポーツのあり方について」が答申され、そこに養護教諭の従来の職務に加えて新たに求められる役割が示された。そこでは養護教諭のヘルスカウンセリングの重要性が強調され、心の健康問題に対応できる資質向上の必要性が述べられている。

 その結果、養護教諭養成カリキュラムに「健康相談活動の理論および方法」が加えられたが、現在も残る多様な養成機関での養成には問題が多いと指摘されている。その後も学級崩壊から児童虐待のような深刻な問題まで新たな問題が出てきており、養護教諭もそれに関わる必要が生じている。こうした複雑な問題は、ひとりで抱え込んで解決できるものではなく、その問題を共有して組織的に取り組むことが大切であり、保健室の問題も教育の問題として発信していこうとする姿勢がみられるようになってきている。また、さまざまなニーズを持つ子どもの増加、保健室来室者の増加に伴い、養護教諭の複数配置が課題となっている。2001年度から始まった第七次教職員定数改善計画では小学校850人以上、中学校800人以上の児童生徒が在籍する学校に養護教諭が複数配置される規準となったが、この規準引き下げを求める声も大きい。また、2002年の学校教育法試行令一部改正で就学基準が改正されたことにより、通常学校への障害のある児童が就学してくることが予想され、医療的ケアを含めた学校の対応が課題とされ、養護教諭がどう関わるかの議論も始まっている38)。一方では、1998年の教育職員免許法の一部改正において、健康教育の一層の推進のために養護教諭が保健の授業を担当する教諭として兼職発令を受けられる制度ができ、定期的に保健学習を受け持つ養護教諭もあらわれてきており、養護教諭のあり方も多様化の傾向を示してきている。

 1960年代以降、子どもの健康実態の変化に合わせて、従来の健康診断の結果の事後措置としての養護活動や、救急活動だけではなく、保健室での子どもの訴えから気づいた心身の健康問題への働きかけへと養護教諭の職務内容は変化してきた。身体的な訴えで保健室を訪れる子どもの中には、訴えの中には直接表れていない心理的な問題や、その背景にある社会的な問題が感じられるものが多くみられた。養護教諭はその場での応急処置や保健指導にとどまらず、教師や保護者と連携したり、場合によっては医療や福祉機関とも連携し、子どもの健康な発達を育む教育者として、組織的な活動を展開するようになって来た。その結果、職務の範囲が拡大し、心の健康への対応や学校全体に働きかける活動という新しい役割が仕事の中で大きな比重を占めるまでに至った。これは、養護教諭には体も心もまるごと受け止めてもらえるという子どもたちのニーズがあり、その期待に応えてきた結果に他ならない。

第一章のまとめ

 1900年代(明治時代後期)に、眼病・トラホームの衛生処置を担当する医療補助者として「学校看護婦」という名称で採用され始めた看護婦が、養護教諭の前身である。複数の学校を巡回する勤務形態のため教職員の一員ともみなされない不当な労働条件であった。大正デモクラシーの時代、欧米の思想の影響で学校看護婦にも社会的・教育的役割が期待されるようになった。その結果、大阪で初めて全校に常駐看護婦が配置され、文部省も学校看護婦の設置を奨励したため、全国的に数が急増していった。やがて職務・待遇の地域差および不安定な身分の改善を求める声は大規模な職務制度確立運動に発展した。折しも戦争へと向かうファシズム体制の時代と重なり、国民体力の増強を最重要課題とする国策の中で、体錬や病虚弱児童の養護の担当者として学校看護婦が注目されるようになった。勅令案検討の過程で学校衛生の仕事が教育に当たるかどうかが議論となり、文部省管轄の職員と位置づけるために、その名称と職務の案は二転三転した。最終的には、1941(昭和16)年公布の国民学校令の中に「養護訓導」という名称で教育職員として身分が規定され、その職務は「児童の養護を掌る」と定められた。

 学校看護婦は公衆衛生対策の必要上から学校医の補助者として採用が始まったものであるが、その職務には子どもの実態に応じての保健指導など、当初から教育的な活動の実態があった。健兵育成を企図した国家の思惑とは関係なく、現場の中から自ずと教育に関わる仕事を行なうようになり、教員と同待遇を求めるようになっていったことに注目したい。

 一方、昭和に入って文部省が今後の学校衛生の方針を決定するに当たり、欧米式の公衆衛生看護婦をとるか我が国独自の一校常駐制の教育職員をとるかの検討において後者を選択した意義も見逃すことはできない。

 戦後、養護訓導から養護教諭に制度が変わり、学校教育法の「養護をつかさどる」という規定の内実を求めて、職務の検討が進められた。養護教諭の仕事の内容は、子どもの健康の実態、保健室来室者のニーズに即して、衛生対策から心身の健康教育や組織活動へと変化を遂げたが、それは子どもの現実を見つめ、その心に寄り添うことで健康を育む教育者であろうとする養護教諭の思いが反映したものであった。1972(昭和47)年に保健体育審議会の答申で示された養護教諭の役割は、「専門的立場から実態を把握し、心身の健康問題の有無にかかわらず、健康の増進に関する指導を行い、教育活動に協力する役割」とされている。また1997年の保健体育審議会答申では、深刻化する健康問題を前に、養護教諭の新たな役割としてヘルスカウンセリングの重要性が強調された。配慮の必要な児童生徒の増加、多様化する職務のなかで養護教諭の核となるものは何なのかが課題となっている。また、養護教諭の養成、学校教育法第103条(当分の間置かないことができる)の問題や複数配置の促進、保健主事の問題なども十分解決されずに残っている。

第1章文献
1)杉浦守邦:養護教員の歴史、東山書房、1974
2)数見隆生:教育としての学校保健、pp5-10、青木書店,1980
3)日本学校保健会:学校保健百年史、pp490-491、文部省、1973
4)宍戸洲美:養護教諭の役割と教育実践 学事出版、pp14 2000
5)杉浦守邦:前掲書1)
6)前掲書4)pp15
7)近藤真庸:養護教諭とは何かを求めて⑫、健康教室44(3)1993、pp49-53
8)近藤真庸:養護教諭成立史研究序説 東京都立大学「人文学報」教育学第17号pp67-88,1982
9)渡部喜美子:養護訓導制度化以前の学校衛生と学校看護婦の歩み、養護教諭制度50周年記念誌、pp2-8、ぎょうせい、1991
10)杉浦守邦:養護教諭制度の成立と今後の課題(日本養護教諭教育学会第9回学術集会当日資料)、pp8-9、東山書房、2001
11)杉浦守邦:前掲書1)
12)藤田和也:養護教諭実践論、pp37-40、青木書店、1985
13)杉浦守邦:前掲書1)
14)千葉千代世:あのころあの人、日教組養護教員部三十年史、pp3-12、労働教育センター、1982
15)杉浦守邦:前掲書1)
16)堀内フミ:ひとすじの道、全国みどり会、32-38、東山書房、1986
17)千葉千代世:前掲書14)pp11
18)杉浦守邦:60年前学校看護婦(養護婦)を養護訓導に飛躍させた仕掛人は誰か、日本養護教諭教育学会第10回学術集会抄録集、pp96-97、2002
19)数見隆生:学校看護婦から養護訓導への職制変更にいたる背景に関する検討、日本教育保健研究会年報、pp43-53、2001
20)森昭三:これからの養護教諭、23-27、大修館書店、1991
21)前掲書3)pp570-572
22)杉浦守邦:養護教諭制度の成立と今後の課題(日本養護教諭教育学会第9回学術集会当日資料)、pp15-16、東山書房、2001
23)三木とみ子:平成13年度全国養護教諭研究大会誌、資料2、pp32、2001
24)後藤ひとみ:養成側から―職制と今後の展望―、日本養護教諭教育学会第10回学術集会抄録集、28-29、2002
25)藤田和也:アメリカの学校保健とスクールナース、pp32-33、大修館書店、1995
26)日教組養護教員部編:日教組養護教員部50年史、pp39-64,2001
27)藤田和也:養護教諭実践論、pp16-26、青木書店、1985
28)小倉学:養護教諭―その専門性と機能―、pp61-63、東山書房、1970
29)藤田和也:前掲書26)pp21
30)小倉学:前掲書27)pp160-177
31)藤田和也:前掲書26)pp33
32)大谷尚子ほか:養護学概論、東山書房、1999
33)三木とみ子ほか:養護概説、ぎょうせい、1999
34)安藤夏子ほか:養護教諭制度50周年記念誌、pp40-69、ぎょうせい
35)数見隆生:教育保健学への構図、pp50-51、大修館書店、1994
36)正木健雄:子どもの体力、大月書店、1979
37)齋藤慶子ほか:「子どもの実態から実践課題を」、子どもをつかむ、pp17-33、青木書店、1988
38)特集・養護教諭に関わる医療的ケアを考える、健康教室54(1)、2003

第2章 養護概念の変遷[to top]

 序章で示したように、「養護」という用語は複数の領域で多様に用いられている。このような用法の拡大に至った背景には、その発生や概念の成立における諸条件、それぞれの領域で使用されはじめた経緯、定着や展開の過程などがあると思われる。本節ではそれらについての先行研究を整理し、養護の本質的な概念について検討する。

第1節 「養護」概念の起こりと導入

1.「養護」の起源 

 「養護」は、「世話をする」という意味を内包する「教育」の一分野として発達してきた概念であるといわれている。佐藤学はETV特集において、EducationにはEducare:エデュカ―レという意味があり、文字どおり「世話をする」“care”の機能を持つと発言している1)。大谷2)は、「大日本百科辞書 教育大辞書(ENCYCLOPADIA JAPONICA)」(復刻版 日本図書センター、初版1918年)を引いて、「教育学 E.Petagogicsは、古代ギリシャのアゼンスにおいて奴隷を雇って児童の通学などの世話をさせたことを、ペダゴーグ即ち教僕などと称したことが由来という(大日本百科辞書教育大辞書・谷本富)」とし、そもそも教育学には「子どもの世話」という意味で養護の概念が含まれており、古来プラトン、アリストテレスからカントへ、さらにヘルバルトへと引き継がれてきものであるとする。そして同書にあるヘルバルト派のライン(W.Rein  1847~1929)の系統教育学の図(次ページFig.2-1)を引用し、教育の方法論である「教授論」と「管理論」のうち、「管理論」に「訓練」「教導」と並べて「衛生(養護)論」が位置づけられていることを示す。

 田中3)によると、1937(昭和12)年に「教育学要義」(三省堂)を著した石山修平も、養護を教育の方法論に位置づけたのはラインであり、それ以来、「養護・教授・訓練を教育方法論の三部門とし、それが今日の通説となった」としているという。しかし田中は、龍山義亮が「養護・訓練・教育という三分類の創始者は西洋の学説ではバセドーであり、この考えを継承して一層強くいったのはザルツマン、そのザルツマンの弟子からグーツムーツと云うドイツの体操教授の元祖がでてくる」(健康教育の研究、刀江書院、1936)としていることも紹介している。

 大谷2)はさらに、「大日本百科辞書 教育大辞書」には「養護学 E.Dietetics:原語はギリシャ語のdiaitetike.に由来する。摂生法の意味」とあることや、この図(Fig.2-1)では「養護学」を「衛生論」と訳したこと、また古くは身体だけでなく精神の養護学に関する書を著したウィーンの医師フォイヒテルスレーベンに関する記述もあったことが紹介されている。

Fig.2-1 ラインの系統的教育学(谷本富による) 2)

 英語のDieteticsは、今日では栄養学と訳される言葉であり、その別名はnutritional scienceであること、栄養nutritionの語源はラテン語のnourish(nutrireか?)で養う/養育(者)の意であり、nurseの語源とも共通すること、ドイツ語のPflegeは英語のnurseに相当することなども挙げ、その関連性を示している。nourishは、英英辞典には“to give someone the food that they need to live, grow, and stay healthy”4)とある。これらのことから大谷は「養護」という言葉について「赤ん坊に授乳する、哺乳する」意から発展して「養育し保護する」につながっており、そこから「養護」と「保育」という言葉が抽出されたとしている5)。厚生省の保育所保育指針総則にも「養護と教育が一体となって、豊かな人間性を持った子どもを育成・・・」という文言があり、養育・保護という点で共通点を持つ用語であることがわかる。

 過去にも文部省体育局事務官(当事)荷見秋次郎が「要するに、養育し、保護するという意味であろう」6)と書いており、簡潔に説明するならばこの表現が一般的であると思われる。試みに辞書をみると、「【養護】①危険がないように保護すること。②児童の体質や心身の発達状態に応じて、適当な保護と鍛錬とを加え、その成長・発展を助けること7)」とある。他の辞書でもほぼ同様であるが、「①危険のないように養い守ること。②(同文に続けて)特に虚弱児童の教育に重視される8)」との表現も見られる。しかしこれで養護教諭がつかさどる「養護」の専門性の説明として必要十分でないのは明らかである。

2.日本の教育学への導入

 「養護」という語が日本で初めて使われたのは、明治20年代にヘルバルト教育学が日本に紹介された時であるとする説が有力である。

 杉浦9)は、「もともと養護という語は、1893(明治26)年ヘルバルト学派の高弟リンドネルの著書“Allgemeine Paedagogie”を湯原元一が翻訳して『倫氏教育学』(金港堂書籍会社、1893)として出版したとき、Pflegeの訳語として提案したものである」とする。「それまで隆盛を極めていたペスタロッチ教育学の「知育・徳育・体育」の語が「教授・訓練・養護」という表現に置きかえられて浸透し、ついには1910(明治43)年の師範学校教授要目でも教育の3方法として教えるようになった」という。(後にこの3領域は1941年の国民学校令施行規則第4条にも反映されることになる。)

 訳者の湯原元一は、1888(明治21)年より帝国大学でヘルバルト学派の教育学を講じたハウスクネヒトの門下生である。彼らによってケルン、リンドネル、ラインなどのヘルバルト学派の理論が1890年代に盛んに紹介されている。湯原が訳した「倫氏教育学」はリンドネルの原著を、原著発行から十余年後に、フリョエリッヒが増訂したものである。同書ではまず教育の原理を第一部体育論と第二部心育論に分け、体育論の構成を(1)人体の構造及び其装置、(2)人体の摂養及び其養成としている。 「養護」は(2)の本文で登場する(目次には摂養とあり、本文では養護となっている)。体育上人間の遵奉すべき生活一般の原則として、(甲)一般の生活法と(乙)特別の生活法があり、(乙)は(甲)の原則より生じ、「養護に関する生活法」と「養成に関する生活法(体操)」とがある。「養護」の内容は栄養、日光、空気、住居、衣服、温度、清潔等の衛生的環境を整え、消化や呼吸・循環・神経の作用を正常に保つ(いわゆる摂生に該当する)ことをさす。一方の「養成(体操)」の内容は散策、水泳、自転車・・・等により身体を強壮にするとともに十分な睡眠をとり過労を避けることをさす。

 田中3)によれば、もともとのヘルバルト教育学はその学的体系の中で、知育論徳育論に偏し体育論を欠くという指摘があり、増訂版においては「その批判を受け止めて、ヘルバルト派教育学を補完する意味で」体育論が追加導入されたとし、「養護」はその体育論の一分野をさすものとして位置づけられていたとする。

 これについて藤田10)も、「倫氏教育学」におけるkorperpflege(身体の養護)は体育論の一部にすぎず、この時点ではまだ教育の三方法とは扱われていなかったであろうと指摘する。その根拠として1894(明治27)年に湯本武比古が著した「新編教育学」でも「養護の目的は身体的発達の扶助と亢進とにあり・・・栄養、呼吸、運動および姿勢、睡眠、神経系統及び諸覚官、衣服並びに身体の鍛錬に関するもの是なり」としていること、当時ヘルバルト教育学を唱導した他の教育学者もこれを「養護」でなく「身体の養育」「身体の保育」「身体の保養」「体育」などとしていることをあげる。また「倫氏教育学」では教育の方法について第2部の心育論で「教授」「訓練」と並んで「管理Regierung」があげられており、この語は類書でも「管理」「監護」「看護」「教導」などと訳され「養護」は用いられていないという。以上のことから藤田は、養護が教育の三方法の一つを意味する概念となるのは、社会的教育学が紹介された1900年代(明治30年代中盤)以降、もともとヘルバルト教育学で「管理」に含まれていた体育論と、同時期に発展しつつあった「学校衛生」とが結びついて「養護論」となっていったとする。例えば1903(明治36)年の熊谷五郎「最近大教育学」では「養護」を5つの教育機能(養護・練習・教授・遊戯・訓練)の一つとしているが、翌年の「社会的教育学講義」では「教授・訓練・養護」の三方法となっていることをあげる。一方1906(明治39)年の森岡常蔵「教育学精義」では「教授・訓練・養護」という語が用いられており、この時期以降この三方法概念が定着していったようであるとする。「教育学精義」はベルリン大学のレーマン(Lehmann.R)の著書Erziehung und Erzieherに準拠の上、自説を加えたものであると森岡の自序で述べており、この時期にドイツではすでにこの三方法概念が用いられていたことを示している。

 この教育学の用語と学校衛生とが結びついたという点については、杉浦9)にも「その後学校医制度が発達し・・・ここにおいて従来環境衛生を中心に発達してきた学校衛生と、教育学における教育方法のひとつとみなされてきた養護とが身体検査を接点として・・・結合するようになり、ここに新たに一般養護と特別養護という独特の概念を生むに至った。」という記述があるが、その時期等の解釈は藤田と異なっているようにも思われる。

 これらのことから、元来ヘルバルト教育学の中で(保護するという意味を含んだ)管理論の一つであった「養護」が日本に翻訳・導入される際に、根拠とした欧米の著作の表現方法の違いや、翻訳し紹介した時期の微妙なずれにより、身体の体育論の一つとして心育と対比して紹介されたり、教育の三要素の一つとして紹介されたりし、さらにそれらが確立しつつあった学校衛生制度の内容とも融合し、時代背景の影響を受けながら、身体虚弱児童の教育をも指す日本独自の養護概念に発展していったのではないかと考えられる。

 第2節 「養護」の発展

 第一節では、「養護」という用語の語源およびわが国への導入について検討した。本節では導入されたときの内容やその発展の経過をより詳しくみていくことで、その概念がわが国の学校教育の中でどのように形成されていったのかを検討する。

1.教育方法論としての「養護」概念

 1890(明治23)年の改正小学校令においては第1条に「小学校ハ児童身体ノ発達に留意シテ・・」とあるが、養護に関係する用語はまだ登場していない。公の文書の中に「養護」が初めて登場するのは、1910(明治43)年の「師範学校教授要目ノ制定」においてである。明治40年に「師範学校規程」が定められたことを受けて、教授の内容を詳しく規定したものが師範学校教授要目である。それによると第三学年「教育の理論、教授法及び保育法」の内容の一つとして「養護ノ目的」「児童身体ノ発達、養護ノ方法」「養護・教授・訓練ノ関係」がある。またこれとは別に第四学年において「学校制度、学校管理法、学校衛生」の一つとして「採光通風暖房清潔法、教授上ノ衛生、身体検査、学校伝染病、救急療法ノ大要」の内容がある11)。このことから、当時すでに「養護」は教育の三方法のひとつとして扱われているが、環境管理を中心とする「学校衛生」とは別のものであると認識されていたことがうかがわれる。

 「教授・訓練・養護」の三要素を1906(明治39)年に掲げたとする森岡常蔵「教育学精義」を検討した田中3)によると、森岡は「精神生活に対して身体生活に関する陶冶、詳しく云へば身体の健康を保持し、体力を発揚、練磨することも努めなければならぬ。これが即ち教育上養護の負担すべき任務である」「精神が健全に保持せられるためには常に身体の健康を有すべきこと、精神の働を遺憾なく表はすためには体力が十分に発揚・練習せられてあるべきこと、この二箇条に帰するのである。つまり教育上養護論の目的は広くこの二箇条の目的を達するにある」とし、二箇条の目的を達するための養護の方法として (1)一方から新鮮な空気を与へ滋養の有る食料を供し運動・休息を適当にすること、 (2)遊戯体操等によって体力を練りまた感官即ち耳、目、鼻、口、触官を練習して精緻の度をも敏捷の度をも増加せしむることの2つをあげている。類似の内容は1911(明治44)年の河野清丸「教育大意」(目黒書店)にもみられる。河野は「積極的養護」として遊戯、体操、手工及び作業、五官の養護をあげ、「消極的養護」として学校衛生をあげている。

 これらの内容は、「倫氏教育学」の体育論と大きな隔たりはなく、教育の目的達成のための方便として、精神生活に関しては教授と訓育、身体生活に関しては養護をあげているのであり、教育の三方法といっても、3つが対等に並列ではないという印象を受ける。また森岡は「教育の事はもと複雑な事業であって、学問上研究の便宜から教授と云ひ訓育と云ひ養護と云って部門を分つけれども、其実際に現れる所では相互に結合して居る」として三要素が個々に独立したものではなく、相互関係のあることも示している。

 Fig.2-2は、第1節で示した大谷2)による「大日本百科辞書 教育大辞書(ENCYCLOPADIA JAPONICA)」(復刻版 日本図書センター、初版1918(大正7)年)の引用の後半部分である。ここでは森岡常蔵はヘルバルトの三分法を改め、「教授学」「教導学」として示しており、後の時代のヘルバルト教育学の発展を見ることができる。大谷はこの図で身体養護 Pflege は教導学の児童管理論に含まれるとしている。森岡は「管理も訓練も共に主として児童の徳性を陶冶するものであり、共に実行方面より入りて心身の発達を期する方便にして、知解に訴える方面より入りて心身の発達を期する教授と対立せしむる理由なればなり」と説明している。また1922(大正11)年の第7回学校衛生講習会において文部省督学官として「教育と学校衛生」の演題で講演を行った際には、学校衛生について「(小学校令の)『身体ノ発育ニ留意シテ』と云ふことは色々の事を授くる際の根本的基礎条件となる。然らば則ち子供の身体の発達に留意することは教育事業の三分の一でなくして全部に関係する大切な事業であると解釈することが出来ます」としてその重要性を述べたといわれている12)。ここで「養護」と「学校衛生」の関連は明らかでないが、この時期にはほぼ「学校衛生=(消極的)養護=管理」という意味合いで用いられているように思われる。

Fig.2-2 ラインの教導学に基づく「養護」(森岡常蔵による) 2)

2.社会的思想と「特別養護」の概念

 教育方法としての「養護」は、師範学校教授要目にも示されたとおり、教師の重要な任務のひとつとして扱われている。一方、明治時代に制度が整い始めた「学校衛生」は、当初「医学的学校衛生」と呼ばれ、学校医が外部者としての視点から環境の衛生改善等を勧告するなど、批判的に監督指導するものであった13)。この二つがわが国の「養護」として結びついていくのはいつからなのであろうか。

 田中3)は、龍山義亮が日本児童社会学界編の「健康教育の研究」(刀江書院、1936)における論文「教育学上に於ける養護と健康」で、養護の考え方を推進した思想を検討していることを紹介している。それによると、「社会的教育学の提唱者」「自由主義の教育説」「デモクラシーの思想」「実験教育学」などの中で體育を重視し、個性を尊重する教育の主張がみられるようになり、そのような考え方に支えられて養護の考え方が抬頭してきたという。これらの考え方に共通するのは、「教育の問題を社会的な広がりの中でとらえ、子どもの自然性を尊重し個性の発達をはかることがこれからの教育であり、全ての子どもの個性に即応した教育を行う」という考え方であり、その結果「当然人間の教育と云ふものを凡ゆる方面に於いて公平に考ふる思想であるから、普通児の教育とともに身體的に陥のある特殊児童を考ふるに至るのである・・・滋にスペッシャル・エデュケーションと云ふものが学校経営の重視する方法となったのである。」「人間が精神的の発達をする上に於ても種々なる差等がある。それは普通児の外に低能児もあれば、劣等児もあると言ったやうに、色々それに應じた教育をして行くことが必要であると、同時に身體的に於ても、病弱な者もあり、普通な者もあり、健康な者もある。これらの色々違った事情を参酌して教育を施して、初めて効果のある教育が出来ることが判り、教育と児童の個性を研究すると云ふ必要を感じて来たのである。」として、ここに特別な教育の概念が登場してくる。この時期については明確ではないが、およそ欧米の社会的教育思想が紹介され始め、第一次大戦のもたらした一時的な好況が大正デモクラシーの風潮を生み出した大正時代中期ではないかと推測される。また龍山はその論文で、体育重視の傾向については教育思想の影響だけでなく、愛国的精神の涵養と体育運動の奨励による健全なる身体の育成をめざした社会的要請も大きく影響していることも指摘している。

 一方、教職員の結核問題、欠食児童の増加と体位の低下、トラホームの蔓延など、医師の勧告にとどまる従来の方式では限界となっていた学校衛生は、やはりこの時期に欧米の「社会的衛生学」の影響を受けることになる。特に英国の「ボア戦争後、壮丁体格の著しく不良なるに・・・発育期における青少年の健康問題こそは、あらゆる国民健康問題の最も基本問題であるとの結論に到達し、急遽学校衛生の制度を実施するに至った」(大西永次郎、近代学校衛生の動向(上)、「帝國学校衛生」1935)という報告は、わが国の現状にも共通するところがあり、社会衛生的施策(専任学校医制、学校診療事業、学校給食、学校看護婦導入など)や、体力増進のための鍛錬を取り入れていく契機となった14)

 そうした状況の中、1920(大正9)年、「学校医ノ資格及職務ニ関スル規程」が改正され、その職務の第6号に「病者、虚弱者、精神薄弱者等ノ監督養護ニ関スル事項」が加えられた15)。そして同年、身体検査規程も改正され、従来の体格検査的な身体検査から、疾病、異常者に対する事後措置中心の身体検査への転換がはかられた16)。すなわち検査項目の中に新しく「監察ノ要否」がとりあげられ、「検査ノ結果心身ノ健康状態不良ニシテ学校衛生上特ニ継続的ニ監察ヲ要スト認ムル者」を要監察者として選び出し、これに対し学校内で「必要ナル処置」をとることになったのである。結果は本人もしくは保護者に示し、授業免除、就学猶予、休学、退学または治療保護矯正等を要するものへの注意など必要な事後処置の規定がはっきり定められた。これは、学校衛生の分野においても病虚弱児や精神薄弱児への対応を求めた乙竹岩造(「身体検査ノ成績ノ利用」日本学校衛生創刊5周年記念号 1918)や坂梨一翁(「学校ニ於ケル病弱者ノ特別監護ニ就テ」日本学校衛生7-3、1919)ら専門家の主張を取り入れたものであるともいわれている。

 このようにして、監察が必要な児童生徒を選別し監督養護するという内容が加わった「学校衛生」と、体育を重視し個性を尊重する視点から身体虚弱・精神薄弱等の児童生徒への特別な教育を考慮することになった教育方法としての「養護」とが歩み寄ることになった。そして、従来からの一般的な摂生法の指導や、不良習慣の矯正・良習慣の訓練等を「一般養護」、身体検査で発見された問題に対し、個々に応じて特別に処置や指導を行なうことを「特別養護」と呼ぶようになっていった。

3.学校看護婦と特別養護

 こうした特別養護の概念発生と、一校常駐制の学校看護婦の登場は、時期がほぼ一致している。杉浦はその理由として、学校看護婦は「健康上の問題を持つ者の特別養護に従事することが期待されて」登場してきたためとする17)。身体検査規程改正の結果、監察を要する児童生徒の監督養護を行なうことになり、学校医がそれに主として従事することになっていたが、月に数回程度しか出勤しない学校医が常時これに関わることは困難である。こうしたことから、「学校内に常勤して、これら病者・虚弱者等の監督養護の実務に従事する職員を設置することが必要となる。このような職員は一校に駐在して児童生徒と生活を共にし、しかも医学的専門的な知識と技術を所有するものでなくてはならない。ここにおいて学校医側からも、教養と経験の豊富な看護婦を学校に配置することを要望する声が高まった」。すなわち杉浦は、学校看護婦は学校医の不在を補って特別養護を担当する職員として配置されるようになったものとする。当時はすでに全国で数十名の学校看護婦が、トラホーム洗眼等を主任務として巡回、非常勤扱いで勤務していたと思われるが、一校に駐在する看護婦はまだ一例も見られなかった。

 近藤18)は、大阪で1922(大正11)年に学校看護婦1校1名駐在制が実現することに大きな役割を果たしたといわれる大阪市の視学・山口正について次のように述べる。山口は、当時の教育雑誌「小学校」(第22巻3号1916(大正5)年11月)に寄せた論文「学校看護婦」で「養護」という語を用いているという。欧米の学校看護婦制度の紹介で「看護婦は・・・単に学校に於ける学校衛生が、さらに進歩して学校児童の教育的養護となったのである」と述べている。学校衛生の中でも学校看護婦が直接子どもを対象にした仕事(健康状態の観察・救急処置・傷病時の看護など)を「学校児童の教育的養護」と表現しているようであるとする。そしてこれが学校看護婦の職務を養護という概念であらわした最初ではないかとする。

 同(1916)年、大都市連合教育会総会において山口は「都市小学校に看護婦を置き、学校医と相俟って保健に関する職務を執らしむるの可否」を提案するが、このときの協議で「積極的体育」と「消極的体育」の担当者について論じられている19)。「最前カラ都市ニ体育ノ必要ナルコトニ就テ種々御説ガアリマシタガ、何レモ積極的方面カラ論ジラレテ居リマス、我々教育者ハ又之ヲ消極的方面カラモ研究シテ見ナケレバナラナイト思ヒマス、現ニ疾病ニ在リ或ハ潜在的ノモノ等ニ就テ防御方法ヲ講ズルト云フコトニ就テ、校医ダケデハ我々ノ満足ニ遠ガルノ憾ガアル、故ニ之ヲ助ケル為メニ看護婦ヲ置キ度イ、而シテ外国ニ於ケル実際に依ルト看護婦ハ学校医ノ手助ケヲスル以外ニ校務ヲ手伝ハセルト聞イテ居リマス・・・」。積極的体育とはいわゆる体操であり、消極的体育は「現ニ疾病ニ在リ或ハ潜在的ノモノ等ニ就テ防御方法ヲ講ズル」ことをさし、議論の後段ではほぼ同義語として「学校衛生」「消極的ノ保護、養護」という語も出てくる。これらはそれぞれ第一節に示した体育論における「養成」と「養護」をさしているものと思われる。ここで山口は学校看護婦の役割について、単に「現に疾病のある(身体検査の結果、特別養護の対象とされた)者」を対象とするだけではなく、「潜在的の(現在は健康である)者」の「防御」も対象と考え、さらに「学校医の手助け以外に校務を」担当させたいという意向を示していることに注目したい。このことは、杉浦のいう「特別養護」以外の仕事も当初から期待されていたことを示すものである。

 1922(大正11)年、日本赤十字社が派遣した看護婦を文部省が女子高等師範附属小学校に配置し、「本邦ノ実情ニ適スル学校看護婦ノ執務方法ニツキ研究」した際、文部省と女高師側とで協議の上定めた執務心得20)には次のように「養護」という語が登場する。

「一.学校看護婦は、傷病児の看護、身体検査の補助を為すのみならず、学校設備の衛生、教授衛生、体育運動衛生、身体虚弱者の養護、精神薄弱者の養護、学校及家庭の衛生教育等学校衛生の全般に亘り執務するのみならず、進んで家庭を訪問し、家庭医或は社会的衛生施設と聨絡を取る様努むること。又社会の学校に及ぼす衛生上の影響殊に学校付近及児童の通学区域中伝染病発生に留意すること。随って学校衛生に関する知識の習得に努むること」(傍線筆者、以下同様)。ここではすでに「身体虚弱者および精神薄弱者の養護」という特別養護に関わる職務が明確に示されているが、その他にも学校衛生や家庭訪問、衛生教育など幅広い職務が示されている。また、その他の執務心得として「常に教育者の一人なることを忘れざること」「児童は学校において教育を受けつつあるものなれば、学校看護婦の執務も教育的なるべきこと、随って児童に接するには常に温容と懇切を専らにし、治療処置又は身体検査等をなす場合にも、互に礼を重ずること」など教育的立場を強調しており、学校看護婦に教育一般への関与も求めていることを示していると思われる。

 1928(昭和3)年、帝國学校衛生会(現在の日本学校保健会の全身)に新設された看護部の機関紙は、その誌名を「養護」と命名している。誌名決定に至る経緯は明らかでないが、ここで「養護」という語が用いられたことは、この当時すでに学校看護婦の職務を養護という概念でとらえるようになってきていたことを示していると思われる。そしてこの翌年、学校看護婦について初めて出された文部省訓令「学校看護婦に関する件」ではその前文に「・・・就中幼弱ナル児童ヲ収容スル幼稚園、小学校ニ於テハ・・・周到ナル注意ノ下ニ一層養護ノ徹底ヲ図ルハ極メテ適切ナルコトト云フベシ」という内容で「養護」が用いられおり、このような訓令に用いられるまでに養護概念が定着してきていることを意味する。

 しかし訓令の本文中、学校看護婦の執務項目には「監察を要する児童の保護」という表現になっている。また、この頃文部省から派遣されて東京の女子高等師範学校の附属小学校に勤務した学校看護婦篠崎ハルが実践書を執筆しており、その書名が「学校衛生 児童養護の実際」(三元堂、1934)とされている。その内容の構成は、1.教育における養護の必要、2.学校における設備衛生の実際、3.教授衛生の取扱、4.体育運動における看護、5.学校における衛生養護の実際 となっており、著者自身、自らの職務を「養護」ととらえていたことがうかがわれる。

 このように学校看護婦が全国的に増加していった昭和初期には、学校看護婦の職務として養護という語がかなり一般化していたと見ることができ、その養護に関する執務の実際から、学校教育における養護概念もある程度成立してきていると見てよいと思われる。ただし「特別養護」の呼称に関しては、必ずしも一般に通用する用語として確立したわけではなく、他の用語が使用されたり、「養護」の中に両方の意味を含んで普及していったと思われる用例が多い。1924(大正13)年学校衛生課による照合調査は「身体虚弱児童の特殊取扱に関する調査」という名称であった。また、1927(昭和2)年の第6回全国連合学校衛生会での文部大臣諮問も「身体検査の結果継続的監察を要すと認められたものに対する適当なる取扱方法如何」21)であり、その答申では「1.要監察児童の養護に関し一層学校医の活動を促すこと 2.学校看護婦設置の普及を図り養護の徹底を図ること 3.学校教員に一層衛生上の知識を普及せしめ要監察児童の取扱を合理的ならしむること」と示され、「特別養護」という用語は出てこないが、学校医と学校看護婦に関して「養護」を用い、教員は「取扱」となっている。なお、この答申の第6項には養護学級などの普及もあげられている。

 1931(昭和6)年から、文部省は虚弱児童養護施設講習会を開催するようになり、虚弱児童の養護に関する理論と実際の普及に努めるようになった。その講習の内容をまとめて出版した「施設中心・虚弱児童の養護」22)をみると、学校看護婦について次のような記述がある。「学校看護婦の設置並にその業務の目的は必ずしも身体虚弱児童に限らるるべきでなく、学校衛生の全般に亘って能く学校医を補佐しまた学校教員と協力してその実行方面を担当し、且つ児童生徒の健康保護に関し家庭との連携を十分にし、一般養護施設の向上を期すべき重要機関であるが、しかし虚弱児童はその日常の医学的観察に於ても、また開放学校、特別学級、休暇聚落等の特殊施設に於ても、これが養護の徹底を期するには、熟練なる学校看護婦の努力によるもの多く、虚弱児童の養護上極めて必要な機関といふべきである。思ふに学校医は其の職務の性質上、学校衛生の実務を担当し、直接児童各個の衛生に関して実行上の成績を挙げるといふことは頗る難事と言はなければならない。然るに学校看護婦は、学校衛生の実務者として敍上の欠点を補日、学校医の指導を受け且つ学校教員と協力して児童並に社会的施設と十分なる連絡をとり、専ら学校衛生の実績を挙げんとするものであって、就中虚弱児童の健康保全上有力な施設といふべく、本事業の振興は我国学校衛生の前途に一新面を開拓するを得べく、学校看護事業の前途は甚だ多忙なることを痛感するものである。」これをみると、学校看護婦は一般養護における職務も期待されるが、特に特別養護において学校医を補ってその実務上の役割を担うことが重要な職務とみなされていたことがわかる。

4.養護訓導制度施行以後の「養護」

 1935(昭和10)年頃からわが国は戦時体制へと突き進み、その過程で学校看護婦が「養護訓導」という教育職へと大きく位置づけが変わっていくことは第1章に述べた。この養護訓導が制度化された1941(昭和16)年当時、「養護」がどのようにとらえられていたかは、倉橋惣三(当時高等女子師範学校教授)の文部省主催講習会講演内容からうかがうことができる。倉橋は「初等教育における養護の正しい意義」として次のように述べる23)。「国民学校令施行規則総則にある『心身ヲ一體トシテ教育シ、教授訓練養護ノ分離ヲ避クベシ』とあるのは、・・・実に児童生活(人間生活)の原理に基づいている科学である。・・・学校の養護は、いわゆる養護として行なわれる狭義の分野内のみに存するものではない。養護的考慮と計画とが常に中心となって行なわれてこそ、その学校の教授も訓練も真に教育になりうるくらいである。この認識なくして養護はいかに周到に工夫せられても、決して活きた教育的機能を発揮し得ない」。また「養護が学校教育そのものであり、・・・養護訓導の新制度をただ養護としての重視だけではその意を得ていない。それだけのことなら学校看護婦で足りるのである。そこに必要な専門的知識から専科訓導に類するものとして特設せられ、また国民の養護問題(この場合健康問題)を総合的に統括して行なうために別置せられたものであり、断じて教育の助手でもまた傍系職員でもないこと。養護訓導の仕事の内容が医学的であり技能的専門の如何に関わらず完全に学校教育者であることの認識が自他共に明らかにしない限り、学校の養護は本物にならない」としている。

 この「養護が学校教育そのものである」という考え方は、すでに1922(大正11)年の森岡常蔵の講演12)で「色々の事を授くる際の根本的基礎条件」「教育事業の三分の一でなくして全部に関係する大切な事業」として示されているものと基本的に同質の発言であると思われ、特別養護の概念(文中で狭義の分野とされているものと解する)が生じても、それが分離したものでなく、それを含めて「養護」は学校教育の根底に位置づく基本概念であるという考え方は脈々と受け継がれていることがわかる。

5.「養護・訓練」における養護

 特殊教育においては、先述の通り、「特別養護」としての概念は大正末期~昭和初期に実体として登場しているが、養護学校の教育課程として位置づけられていくのは、昭和38年に文部事務次官通達として「養護学校学習指導要領病弱教育編」が出されて以降である。このとき総則の第四「養護活動」に、その目的を健康の回復として学校の教育活動全体を通じて行なうことが示されるとともに、教科として小学校・中学校の「体育」「保健体育」に代えて「養護・体育」「養護・保健体育」が位置づけられた。そのうち「養護」の内容は(ア)主として安静に関する内容、(イ)主として運動に関する内容、(ウ)主としてレクリエーションに関する内容の3つであった。

 1969(昭和44)年に文部省から発行された「養護および養護活動の手びき」24)には、「養護」の概念について、養護教諭の職務にも「養護」とあることに触れた後、以下のような説明がなされている。「養育と保護の二つの概念を合わせたような場合に養護ということばが一般に使用されている。これら一般に使われている養護の内容は大きく三つに分類することができる。第1は、適切な発育や発達を進めるような行為に対して使う場合である。・・・第2は健康者に対して、発病や障害を受けないようにするための指導について使う場合である。また病気予防や安全生活についての指導・・・、さらに保健奉仕的な活動を養護という場合もある。すなわち、保護の概念に近いのである。第3は病気の回復を促進させることを狙いとした身体的、精神的な働きかけを包括的に言う場合で、看護とほぼ同義に使用されている。」

 すなわち一般に養護は「発達促進」「保護」「看護」に近い内容として多様に用いられていること、また類似のことばに養生、保健、衛生などがあり、重なり合った内容を持っていることが述べられている。さらに、学校教育において、古くから用いられている「教授、鍛錬、養護」の養護は、主として健康の維持増進、順調な発育に対する保護、看護、養育をさしており、またかつての学校衛生の立場からの養護は、主として疾病異常者や身体虚弱者の治療矯正の促進や健康増進に対して使われていた、として、一般養護と特別養護にあたるそれぞれの意味を簡潔に示している。その上で、病弱教育における養護の位置づけとして、「病弱状態の改善、健康回復を図ることを直接ねらった教科としての必要な教育活動をさすもの」と定義する。さらに「養護」に関連する諸問題として、①学校保健との関連、②医療との関連、③内容に関する問題をあげている25)。①については、「養護」は上位概念としての学校保健に内包されるとし、②については、上下関係ではなく健康回復という目標に対する共同作業であり、「養護」の内容も医療を基本とする関係としている。③については、運動量を中心とした考え方から着想されているが、疾病の原因や症状によっては内容が異なる場合があることを述べている。

 この教科としての「養護」は、1971(昭和46)年に改定された学習指導要領(告示)で、盲学校・聾学校・養護学校(精神薄弱教育・肢体不自由教育・病弱教育)に共通する新しい領域「養護・訓練」が設けられたことでそれに置き換えられた。これは「心身の障害の状態を改善し、または克服するために必要な知識、技能、態度及び習慣を養い、もって心身の調和的発達の基盤を培う」という共通の目標のもとに、それまで肢体不自由教育において行なわれていた教科「体育・機能訓練」の中の「機能訓練」の内容などと併せて、4つの内容で構成された。すなわち「A.心身の適応、B.感覚機能の向上、C.運動機能の向上、D.意思の伝達」であり、その指導計画の作成と内容の取扱は学校種別ごとに異なっていた。そしてこの養護・訓練の指導は、学校の教育活動全体を通じて行なうとともに、専門知識を持つ教員が中心になって行う「養護・訓練」の時間を設けるという二つの内容が含まれていた。

 その後この「養護・訓練」の領域は、1989(平成元)年の内容の変更を経て1999(平成11)年の学習指導要領改定まで28年間この名称で位置づけられ、「養護・訓練担当教諭」などの職名も誕生した。しかし1999(平成11)年以降の現行の学習指導要領ではこの領域名は「自立活動」という名称に改められた。そして本文中に「養護」という用語は、第5章自立活動の内容として「1.健康の保持 (3)損傷の状態の理解と養護に関すること」の一か所以外は、全く登場しなくなっている。

第3節 養護概念・養護機能に関する議論

 養護教諭の専門性に関わる養護概念の研究は、1960年代、小倉によってその緒についた。ついで1970年代に杉浦によって、歴史的にその概念を検討する研究が進められた。藤田はこれらを比較検討したうえで、独自の養護概念論を提案している。さらに近年では大谷らが独自の研究を始めている。藤田によれば、小倉と杉浦の養護概念の歴史的変遷過程に対する理解の仕方には相違がみられるという。砂村らはそれらのとらえ方を比較・整理している26)。本節ではそれらを概観したうえで、養護教諭に関わる養護概念に関する議論の論点を明らかにする。

1.養護教諭の養護概念に関わる研究の動向

(1)小倉の研究

 小倉27)は、養護教諭の専門職化について歴史的考察を行い、養護概念は「特別養護」から「一般養護」へと拡大・発展してきた、ととらえている。すなわち、学校衛生の関心事が、

 疾病異常児童(発見→勧告→学校診療) → 虚弱児童(特殊取扱→保護→特別養護) →    一般児童(養護) へと拡大するにつれてその活動が発展し、その過程に伴って「養護」の専門的機能が次第に独自の分野を形成していったとする。そして養護教諭の機能の質的発展をとらえ、養護の現代的な内容はFig.2-3のような三層構造でとらえることができるとする。ここで「養護」を狭義にとらえれば①~③であり、それは「教育保健における保健管理と保健指導に関する専門性」であり、広義にとれば④までも含む概念であるとする。

(2)杉浦の研究

 杉浦28)は、「養護」はもともと教育学に内包されていたものであり、教授、訓練、養護 のひとつであるとする。その意味は「衛生的原則を子どもたちに学ばせ実行させる」といったものであり、一般教師が担当すべきもの(一般養護)とされていたとしている。この時期はまだ学校看護婦は出現しておらず、それと関わりなく「養護」は存在していたことになる。その後、大正末期から昭和にかけてそれまで就学猶予や免除をされていた子どもたちが就学するようになり、その子どもたちへの特別な配慮やケアが必要になって「特別養護」という概念が出てきたとする。そして、トラホーム洗眼のため配置されていた学校看護婦が、その特別養護の担当者として「変身」していったのだとする。したがって「養護」とは、健康問題をもつ児童生徒に対し、計画的に専門的知識と技術を行使して、その解決に導く支援活動である」と定義する。そして養護教諭の職務として①教育職員としての職務、②保健関係職員としての職務、③養護をつかさどる職員としての職務 の3つがあり、そのうち本来的に期待されている養護機能は、当然③であるとしている。

(3)藤田の研究

 藤田はまず小倉と杉浦のとらえ方の違いを分析している29)。小倉が歴史的に“養護概念は「特別養護」から「一般養護」へと拡大・発展してきた”としているのに対し、杉浦は“「一般養護」が先にあり、それとは異なる特別の役割を担って「特別養護」が登場してきた”とする。この違いが生じた第一の理由として、小倉が養護概念を学校看護婦登場以後の学校衛生や学校看護婦の活動と機能から導き出したのに対し、杉浦は学校看護婦登場以前から教育学分野にある概念からの変遷をとらえたことによるとする。第二に養護の本来的意味内容を、小倉は「一般養護」に求め、杉浦は「特別養護」に求めていること、第三に養護概念の意味する範囲を小倉が養護教諭の仕事全体を包括するようなものととらえているのに対し、杉浦は養護教諭の独自性の追求という視点から、狭い範囲に限定してとらえているということによる。

 これらをふまえた上で藤田自身は概ね小倉の主張を支持する立場を明らかにし、また養護概念の範囲は小倉よりもさらに広く、養護教諭の仕事に限定せず学校全体の機能と見るとらえ方を提言している30)。すなわち、学校には近代学校の成立以来、養護の機能(役割)が賦与されており、それを一般教師では担いきれないために、それをもっぱら中心的に担うことを期待されて、学校看護婦(養護教諭)が登場したのだとする。そして学校における養護の機能を「端的に言えば学校保健の機能である」 (学校保健は実態を表す概念であり、養護は機能面をとらえた概念) として、次の図(Fig.2-4)を示している。

藤田はこの「健康保護と発育保障」「学習条件の整備と就学保障」「保健の科学的認識と自治能力の育成」の3つを統合した機能が現代的な意味での養護であり、それは基本的に子どもの「健康保護」と「発達保障」という2つの軸で支えられているものであるとする。

(4)大谷の研究

 大谷31)はこれまでの先行研究をふまえ、養護の本来の意味を「未熟な子どもが日々を安全で健康な生活を過ごせるように世話をすることにより、人間的成長を支援すること」と定義し、その活動は「一人ひとりのからだを守り健康の維持増進をはかっていくとともに、一人ひとりが社会の中で自立した人間として成長できるように働きかける教育の一環としての活動でもある」とする。そして元来その行為は家庭で家族によって行なわれてきたが、家庭や本人の事情による必要(ニーズ)から、その機能が福祉場面や教育場面等で社会的にケアするシステムが整備されてきたのだと説明する。今日のわが国ではその対象は児童(生徒・幼児)、病虚弱者・障害者・老人と多様であるが、教育場面では、成長発達途上にあるこども全てがその対象と位置づけられ、心身の疾病・障害をかかえる子どもは格別な養護の対象となる。さらに、看護との比較から、「養護とは、病気そのものを問題にしてそれを直すことを目的に関わるのではなく、日々の暮らし・生活に不都合なことがないように支えることであり、自力で生活できるように支援・教育することである」とも述べる。

 また、具体的な養護の機能としては①救急看護の機能、②問題発見の機能、③問題改善の機能、④疾病予防・健康増進の機能、⑤健康能力を開発する機能、⑥人間形成の機能の6つを挙げている。さらに「関連する機能」として「教育」、「医療・看護」を挙げ、「子どもの養護の目的はそれらと共有するものであり、相互に関連しあい内包される関係にある」としている。

(5)岡田の研究

 岡田32)は藤田や大谷の研究をふまえ、ケアの視点から養護の機能について研究を進めている。「ケア」には①広義の意(感情の動きを主に表すもので、「気遣い」「配慮・気配り」「大切に思う」「共感する」などをさす)、②中間的な意味(誰かに何かを与える「行動」を表す)、③狭義の意(医療や福祉の分野で用いられる専門的・職業的なもので例として「身体ケア」「ターミナルケア」など)があることをあげたうえで、養護教諭の養護活動は、「学校という場を中心」に、「人間形成の教育機能(教育における自己実現をめざすケア)」を基本として展開されるものであるとする。そして養護教諭の養護の機能は、自己実現をめざす広い意味でのケアに近い「人間形成の教育機能」の上で、健康を守る機能「健康支援(専門的なケア)活動」と、健康について教え、育てる機能「健康教育活動」の絡み合いの中で発揮されるとする。すなわち、、大切に思う、共感するといった講義のケアの感情の動きを表す意味も含めながら、専門家としてケアするものとする。

(6)中安の研究

 中安33)は、日本養護教諭教育学会および日本教育大学協会全国養護部門研究委員会の報告を紹介する形で、高橋による「養護学はその近接領域である看護学、医学、教育学、心理学、保健学などの統合ととらえるのでなく、これらを下位概念(ハイポサイエンス)とした独自の体系でなければならない」という主張などを示したうえで、これらの研究から共通項として導き出される養護の概念を「子どもを中心にすえて、その成長発達支援を目的に行なわれる活動、もしくはその活動過程を表す概念」であり、「多くの近接学問領域で構成され、多様な機能を包含する独自の教育活動」ということができるとする。それはすなわち「子どものからだへの働きかけが成長発達に収斂されていく、固有の教育活動を意味するといえる」とする。

 そして養護概念の厳密な規定を困難にする原因として、養護教諭の実践が「多様な対象に即応性のある多様な働きかけを行うという点で必然的に主観的にならざるを得ない」こと、そして実践には「養護教諭の世界観や人間観が反映されるために個性的にならざるを得ない」ことを挙げる。

 また中安は、城丸による「福祉と教育を結びつけるなかで養護の独自性を切り開いて行くべきである」という主張を紹介し、福祉は人として当たり前に生きる生き方、生活を問い返すことであり、子どもは取り巻く環境やさまざまな関わりの中で生きている生活者であるという解釈を前提とした上で、養護の概念は「生活者としての子どもの人間存在に、からだを通して関わっていく教育活動であり、その活動は子供の生活現実に即して行われるという点で、近接の学問領域にかかわる総合性とフレキシビリティーのある概念だと思われる」としている。これは、藤田34)が紹介する以下の「城丸-堀尾論争」に基づく、福祉機能という視点からの養護機能のとらえ方によるものである。


(7)学校の機能をめぐる城丸と堀尾の論争

 城丸章夫は1973年9月号の雑誌「教育」の「学校とはなにか」の論稿で、義務教育制度が児童労働の禁止と見合って発展させられてきた(福祉政策の一環であった)という歴史をふまえ、学校の本来的機能として福祉的機能をとらえる必要性を論じた。氏は翌年6月の「現代と思想」でのシンポジウム「現代における学校の意義と役割」においても、「近代学校の持つ3側面の一つに学校の福祉機能があり、学校の人格形成機能とのかかわりにおいてこの福祉機能を考えなければならない」と提起した。

 一方、このシンポジウムで堀尾輝久は、「給食の問題、健康の問題、そして安全の問題は・・・子どもたちの生命とその発達の基礎を保障するということで必要」ではあるが、「それは当面の必要なのか、学校の本来的機能なのか」というような分節的な説明が必要であることを述べ、学校の主要任務は「文化伝達による発達保障と自主的・自治的諸活動による民主的人格の形成」であると提起した。さらに氏は翌年(1975.4)「科学と思想」における論稿「現代における学校の社会的機能」で、「教育と福祉の任務の区別と統一」が重要で、それは「学校が福祉機能をそのまま背負い込むことを必ずしも意味しない」「学校での健康やあるいは安全についての配慮・・・これらは現在の過渡期における学校で、変革を担おうとする教師が、どうしても引き受けざるを得ない任務として考えるべきだろう」とした。

 この両者の対立は、城丸が義務教育制度にはその成立のときから一定の福祉機能が付与されているととらえているのに対し、堀尾はそれは学校の本来的機能ではなく過渡的任務であるとする、近代学校の性格のとらえ方の違いによる。城丸の主張は、そのまま先の藤田による「学校保健の『健康保護と発育保障』の機能」の主張に結びつき、養護概念が学校の本来的機能であるかという議論につながるものである。

2.養護概念に関する議論の方向性

 以上の先行研究から養護概念の議論は、概念の発生をどの時点であるととらえるのか、またその意味をとらえる視点をどこに置くのかによって異なるものとなっており、共通の前提条件に立っていないことから十分に比較検討できない状況にあることが明らかになった。歴史的には、教育学に内包される概念としての「養護」の存在、および「管理(衛生)論」の内容として、また「体育論」として導入された「養護」があり、それらは一般児童を対象とした養護である。これは一般の教師も行なうことであり、養護教諭の独自性とはいえないものである。一方、大正末期から昭和初期にかけて増加した身体虚弱児童など、健康に関する問題を有する児童を対象にした支援は「特別養護」とも呼ばれ、それが養護教諭の名称にもつながっていると考えられる。やがて虚弱児の減少とともに、養護教諭の活動も全ての児童を対象にした教育活動へと発展してきたと考えられる。このように養護はその対象が多様に変化し、多様な関わりが生じることから、現代の養護教諭における養護概念の規定は難しい。基本は対象とする子どもの生活に即した発育・発達保証のための教育活動であろう。大谷は「教育」を養護に関連する機能としてあげているが、「関連」ではなく、「含まれる」ものであろう。しかしその中に福祉機能を含むものであるかの議論の結論は出ていない。

 さまざまな立場からの議論について、養護の目的、養護の対象、養護の機能、養護の役割、等の論点をさらに整理し、条件を統制して検討していく必要がある。

第2章のまとめ

 「養護」は、「世話をする」という意味を内包する「教育」の一分野として発達してきた概念であるといわれている。ヘルバルト派のライン(W.Rein  1847~1929)の系統教育学には「訓練」「教導」と並べて「衛生(養護)論」が位置づけられているとされる。

 「養護」という語が日本で初めて使われたのは、明治20年代にヘルバルト教育学派の訳本『倫氏教育学』においてPflegeの訳語として紹介された時であるとする説が有力である。ここでは体育論の一分野として衛生的環境を整え、消化や呼吸・循環・神経の作用を正常に保つ(いわゆる摂生に該当する)ことをさしている。これが後に師範学校教授要目で教育の3方法「教授・訓練・養護」として教えるようになり、さらに1941年の国民学校令施行規則第4条にも反映されていく。このことは養護概念がヘルバルト教育学の体育論に、学校衛生制度の内容が融合して教育の基礎となる健康管理を表すものとなり、さらに身体虚弱児の教育をも指すものに発展していったのではないかと考えられる。

 教育方法として教師の重要な任務のひとつであった「養護」と、学校医による批判的「学校衛生」の二つがわが国の「養護」として結びついていくのは大正時代であったと考えられる。

 田中は、龍山義亮が1936年に個性を尊重する教育の視点から特別な教育を論じていることを紹介している。これは大正デモクラシーの思想が導入された時期である。一方、学校衛生もほぼ同時期に欧米の「社会的衛生学」の影響を受け、英国の社会衛生的施策(専任学校医制、学校診療事業、学校給食、学校看護婦)や、身体の鍛錬等が導入された。その結果、1920(大正9)年には身体検査項目の中に新しく「監察ノ要否」がとりあげられ、学校医の職務に「病者、虚弱者、精神薄弱者等ノ監督養護」が加わった。このように児童生徒の監督養護という内容を含む「学校衛生」と、特別な教育を考慮することになった教育方法としての「養護」が歩み寄り、従来からの一般的な摂生法の指導や良習慣の訓練等を「一般養護」、身体検査で発見された問題への特別な処置・指導を「特別養護」と呼ぶようになった。

 特別養護の概念発生と、一校常駐制の学校看護婦の登場は、時期がほぼ一致している。月に数回しか出勤しない学校医に代わり、常勤してその実務に従事する職員が必要となったためといわれている。山口正は1916(大正5)年の論文で、初めて学校看護婦の職務に「養護」という語を用いており、また1922(大正11)年の女高師附属小学校の学校看護婦執務心得にも「養護」が登場する。従って、この時期にはすでに学校看護婦の職務を養護という概念でとらえるようになってきていたことが考えられる。

 その後「養護」を教育の一分野と明確に位置づける動きを経て、国民学校令で養護訓導が制度化されたとき、倉橋惣三は文部省主催講習会で「養護は学校教育そのものである」と述べており、特別養護の概念を含めて「養護」は学校教育の根底に位置づく基本概念であるという考え方が受け継がれていることがわかる。

 養護教諭に関わる養護概念についてもさまざまな主張が見られるが、特に機能の面を中心に論点をさらに整理し、条件を統制して検討していく必要がある。

第2章文献
1)滝澤利行ほか:第48回日本学校保健学会自由集会報告、日本教育保健研究会年報第9号、pp79、2002
2)大谷尚子:わが国における「養護」という言葉の使われ方について、日本養護教諭教育学会誌4(1)、pp100-109、2001
3)田中勝文:「養護」概念の検討、愛知教育大学研究報告30(教育科学編)pp154-165、1981
4)LONGMAN ACTIVE STUDY DICTIONARY OF ENGLISH, Longman Group UK Limited 1991
5)大谷尚子ほか:養護学概論、pp16-20、東山書房、1999
6)荷見秋次郎:養護教諭概論、pp17、東山書房、1949
7)新村出 編:広辞苑第二版補訂版、
8)角川国語中辞典、
9)杉浦守邦:養護教員の歴史、pp35、東山書房、1974
10)藤田和也:養護教諭実践論、pp56-60、青木書店、1985
11)文部省監修・日本学校保健会:学校保健百年史、pp62-64、第一法規出版、1973
12)芦田千恵美:大正~昭和初期の養護学級に関する一考察、日本大学人文科学研究所研究紀要37,187-202、1989
13)小倉学:学校保健活動、pp46-48、東山書房、1974
14)数見隆生:教育としての学校保健、pp19、青木書店、1980
15)日本学校保健会:前掲書11)pp521
16)同上、pp522-524
17)杉浦守邦:前掲書9)
18)近藤真庸:養護教諭成立史研究序説、東京都立大学「人文学報」教育学第17号、pp67-88、1982
19)近藤真庸:山口正の学校看護婦構想、健康教室43(4)、pp59-65、東山書房、1992
20)杉浦守邦:前掲書9)
21)日本学校保健会:前掲書11)pp654-655
22)大西永次郎:施設中心・虚弱児童の養護、pp1-46、右文館、1931
23)三木とみ子:平成13年度全国養護教諭研究大会誌、pp27、2001(「学校衛生」帝國学校衛生会、文部省体育局監修昭和18年より引用)
24)文部省:養護および養護活動の手びき―病弱教育のために―、pp4、1964
25)同上、pp6-8
26)砂村京子ほか:日々の対応からみた「養護」に関する研究第1報、日本養護教諭教育学会誌4(1)、pp15-26、2001
27)小倉学:養護教諭―その専門性と機能―、pp57-59、東山書房、1970
28)杉浦守邦:養護教諭の実際活動、54、東山書房、1977
29)藤田和也:前掲書9)、pp53-55
30)同上、pp68-77
31)大谷尚子:前掲書5)、pp18-26
32)岡田加奈子:「養護教諭の養護活動」と健康支援(看護的)活動・教育活動、第9回日本教育保健研究会講演集、pp64-65、2002
33)中安紀美子:養護教諭の養護とは何か、日本教育保健研究会第7回大会抄録集、pp37-38、2000
34)藤田和也:学校の本来的機能としての養護教諭、一橋大学スポーツ科学研究室研究年報、pp43-51、2002

第3章 特殊教育における「養護」[to top]

 第2章第2節において、養護学校教育の一領域としての「養護・訓練(現在は自立活動と改正)」について触れた。この他にも特殊教育の分野において「養護」という語は「養護学校」「養護教育」といった用語として定着し、多用されている。しかし序章に示したように、このことが養護教諭と養護学校教員との名称の混同、養護教諭の職務内容の混乱をもたらし、養護教諭自身の職名に対する否定感にもつながっていると思われる。本章では、これらの用語がこの分野にどのように登場し、学校種別および学習指導要領における領域名に採用されるに至ったかの経緯を追究することで、名称問題の起源を明らかにする。さらに障害等のある児童生徒に対して養護教諭がどのように関わってきたかを整理することで、いわゆる「特別養護」における養護教諭の役割を検討する。

 なお特殊教育は近年、特別支援教育と呼称される傾向にあるが、本論文ではここで扱う時代の表現に倣うことにする。(その他、現在使用されなくなった用語についても同様とする。)

第1節 養護学校・養護学級の名称の確立

 第2章で検討したように、「養護」は明治時代後期以降、教育の三方法の一つとして定着している。従って特殊教育の分野においても、児童生徒の健康に関わっての養護的概念は存在したと思われるが、大正末期までこの分野に「養護」という語は登場しない。最初に登場するのは1926(大正15)年、身体虚弱児童のための特別学級の名称としてであり、しかもその名称が定着するのはもっと後のことである。それはすなわち杉浦がいうところの「特別養護」1)の概念が確立して以降のことではないかと考えられる。そこでまず、養護学校が対象とする精神薄弱者、肢体不自由者、病弱者の教育の歴史を文部省「特殊教育百年史」2)および日本学校保健会「学校保健百年史」3)等を基礎資料として概観し、特別な教育を行う学校が「養護学校」、特別な学級が「養護学級」、のちに「特殊学級」と称されるまでの経過を検討する。

1.精神薄弱教育

 明治時代後半、就学児童の増加に伴い、劣等児・落第児等と称される学業不振児が現れるようになった。これに対して1890(明治23)年頃から松本尋常小学校や長野尋常小学校の能力別学級編制などのように特別な学級や課外指導等による教育が行なわれるようになった。特別学級の名称は「落第生学級」「晩熟生学級」「異常児学級」等さまざまであったが、養護学級という名称はみられない。当時は精神薄弱の検査や判定についての科学がまだあまり発達しておらず、「知能の劣っている者」と、社会的・衛生的環境の影響により発達が阻害されて「学習力の劣る者」とが同様に扱われていた。

 明治30年代になり、欧米の精神医学、教育病理学などが紹介されるようになり、高等師範学校や教員の講習会等での講義も開始されるようになった。1907(明治40)に師範学校規程の「要旨及施行上の注意」中に「附属小学校ニ於テハ規程ニ示セル学級ノ外ナルベク盲人、人又ハ心身発育不完全ナル児童ヲ教育セン為、特別学級ヲ設ケテコノ方法ヲ研究センコトヲ希望ス。・・・我ガ国教育ノ進歩ト文化ノ発展トニ伴ヒ将来ニ於テハソノ必要アルヲ認ムルヲ以テナリ」と附属小学校の特別学級設置を奨励する内容が盛り込まれた。訓令により十数校に特別学級が設けられたが、予算的裏づけもなく長続きしたのはわずか2校のみであった。

 第一次世界大戦後、自由主義教育、個性尊重教育の思想が導入され、そのころから「促進学級」や「補助学級」の設置が盛んになる。「促進学級」とは、個別の学力指導および運動・栄養の改善等の衛生的指導により、言及に復帰することを目的とするものである。補助学級は、復帰を予定せず、学級を固定して卒業まで指導を行なう学級である。これらは児童保護の観点から、それまで放任されたり、普通学級児童の学習の妨げとなっていた児童を分離し、個性に応じた指導を講じるものとして広まっていった。1921(大正10)年に文部省学校衛生課の所掌となってからは精神薄弱児の監督養護にも注意が払われるようになり、養護に関わる内容として、病癖の矯正、衛生習慣の指導などの他、戸外運動の奨励、栄養食の給与、肝油服用、人工太陽燈照射など虚弱児と同様の管理指導も行なわれた。しかし昭和5年頃からは教育費の削減に伴い減少傾向をたどることになった。

 一方就学免除などの形で学校教育の対象とならなかった精神遅滞児等の保護と教育は主として慈善事業の一環として施設で行なわれた。1906(明治39)年の滝野川学園などがそれである。独立した公立学校は1940(昭和15)年の大阪市立思斉学校まで全くみられない。

2.肢体不自由教育

 大正時代まで不具、片輪などと称された肢体不自由児童は、1900(明治33)年の改正小学校令で「学齢児童、瘋癲白痴又ハ不具癈疾ノ為就学スルコト能ハズト認メタルトキハ・・・保護者ノ義務ヲ免除スルコトヲ得」と定められたものに該当し、長いこと就学免除の対象であった。当初虚弱児の概念や範囲が不明確であったため、就学して身体虚弱児とともに処遇される者もいた。肢体不自由児童に整形外科治療と合わせて初めて教育を行なった施設は1921(大正10)年の私塾「柏倉学園」である。昭和時代に入って帝都教育会が学校系統改定案の一つとして特殊児童の独立学校設立を主張するようになり、市会でもとりあげられた。その結果1932(昭和7)年、我が国最初の肢体不自由学校として東京市立光明学校が開校した。特設科目として聴方科、読書科、生活科、職業科が設けられた他、医療との連携を重視し、整形外科医である学校医が毎週出校して指導に当たり、看護婦4名が養護関係の業務に当たった。校内で治療の一環としてマッサージ療法、太陽燈、日光浴、入浴、矯正体操、ギプス療法等も実施された。その後も肢体不自由児に対する教育はしばらくの間、整形外科学を専門とする医師の主導で機能訓練を中心とした治療的な教育に重点がおかれた。

3.病弱教育

 身体虚弱児の健康増進のための教育に関する最も古い記録は、1889(明治22)年に三重尋常師範学校が行なった転地教育である4)。当時は学校教育の普及に伴い近視眼、クル病、衰弱(虚弱・腺病・肺病)、伝染病等の「学校病」が問題化してきた時代である。師範学校生徒の病弱は教員の健康問題につながり、児童の健康にも影響を及ぼすことから、特に重視される傾向にあった。すでにデンマークやスイスにおける虚弱児童の集団戸外教育の効果が報告されており、その影響も見逃せない。

 次いでドイツのWaldschule(ベルリン郊外のシャルロッテンブルク林間学校)やFerien-kolonie(休暇集落)が紹介され始め、これ以後大正から昭和時代にかけてさまざまな形態の病弱教育が行なわれる。最も多くみられたのは、休暇を利用して林間や海浜等に数週間滞在し、体質改善をはかる「休暇集落」であった。林間(海浜)学校、夏季保養所、特設養護学級等の名称もみられるが、多くは教科指導を主としない短期間の施設である。対象者は、学校の身体検査で継続的に監察が必要とされた身体虚弱児童等であり、その厳密な選定のために身体検査の方法や基準も議論され、改定されていった。

 やがて休暇中だけでは十分な効果が期待できないことから、療養と教育を兼ねた常設の施設が登場する5)。最初に開設されたのが、我が国最初の養護学校として知られる茅ヶ崎の白十字会林間学校で1917(大正6)年のことであった。白十字会は当時まだ手つかずであった結核予防事業に取り組むため、結核予備軍とみなされた腺病質の児童を対象に教育を行なった。以後都市の虚弱児童を対象とした特別の学校は国民学校令制定までに公立・私立を合わせて20あまり設立された。そのうち名称に「養護」が冠されているのは1936(昭和11)年度以降に東京市(または区)が設置した「養護学園」が7校ある。

 一方大正末期には、普通小学校への特別学級開設も始まった。この最初の学級は1926(大正15)年設置の東京市の鶴巻小学校とされる(これより前の大正11年に大阪府池田師範附属小学校に設置されたという資料もあるが詳細は不明である)。この設置には1920(大正9)年に東京市教育会が紹介したアメリカのOpen-air Class(当時の邦訳は露天教室)の影響が大きいと思われる。このときの視察団に、後の鶴巻小学校長小菅吉蔵もいたという6)。Open-air Classは合理的な結核対策としてアメリカで独自に発展・普及した特別学級で、病弱児童を一教室に集め、冬季でも教室の窓戸を開放して学習を行なうものであった。この方式を取り入れ開放学級などと称する特別学級は、昭和2年の調査では全国で18校27学級あり、そのうち「養護学級」の名称が数校にみられた。これが昭和7年には87学級、同10年には209学級、同15年度には1203学級と急増し、その名称も「養護学級」が徐々に一般化した。養護対策として外気浴の他、栄養昼食、肝油服用、太陽燈照射、不摂生の防止、授業時間の短縮、郊外学習などを積極的に行なった。

 養護学級急増の背景には、まず身体虚弱児童問題の顕在化があげられる。1924(大正13)年の調査により全国平均で5%、約50万人の虚弱児童の存在が明らかになり、文部省も養護施設の普及奨励、経費補助、指導者講習等を行なうようになったのである。また保護者の経済的負担の問題が上げられる。林間学校などの費用はかなりの高負担で、貧困家庭の児童が参加できないという実態があったという7)。さらに自治体の財政上も既設校の中に学級を設置する方が容易であった。1937(昭和12)年に設置された「教育の刷新に関する重要事項を調査審議」した教育審議会の「諮問第一號特別委員会整理委員会会議録」によると、文部省普通学務局長藤野恵の発言に「これらの児童は結論から申せば一般の正常児童と切り離して特殊の学校として経営することが最も望ましいことであると思いますが、一面経費等の関係もあるので、現在では既存の学校に学級として設けているのが大体の実情であります」8)とある。こうして特別学校就学は「虚弱の程度著しく常に医療的処置を必要とする者、また休養安臥を必要とする者」に限られ、大多数の一般虚弱児は特別学級で教育されるようになっていったのである9)

 さらに最大の要因として、「教育としての養護問題は、同時に公衆衛生としての結核予防問題」(大西永次郎「学校体育と学校衛生」)であったことがあげられ10)。明治末期から昭和初期にかけて結核の死亡率は人口1万対20という高率を維持し、死亡原因の第一位であった。

昭和10年頃までは結核の病理学、診断・治療法等が未確立であり、一般に腺病体質の者が発症しやすいと考えられていたため11)、教員の検診とともに虚弱児童の健康増進は最も重要な対策であった。そして昭和10年代以降は国策としての富国強兵策により青少年の結核対策は一層重視されるようになったのである。結核検診方法が確立した1941(昭和16)年以降は陽転児が養護学級の対象として奨励されるようになり、国庫補助も行なわれるようになった。

 これらの結果、精神薄弱児の「補助学級」数が減少していったのとは対照的に、身体虚弱児の「養護学級」は1944(昭和19)年まで増加を続ける。1942(昭和17)年における養護学級総数は1682学級、そのうち身体虚弱は1616学級(96%)という統計12)があり、この時代における特殊教育といえば身体虚弱教育をあらわしていたのだといえる。

4.国民学校令

 1941(昭和16)年に国民学校令が制定され、その施行規則において「身体虚弱、精神薄弱其ノ他心身ニ異常アル児童ニシテ特別養護の必要ありと認ムルモノノ為ニ特ニ学級又ハ学校ヲ編成スルコトヲ得」と示された。特別な学級、学校の編制について法的に示されたのはこれが初めてである。そして文部省令により、これらの学級又は学校は「養護学級」、「養護学校」と称され、なるべく身体虚弱、精神薄弱、弱視、難聴、吃音、肢体不自由等の別に編制すること、一学級の児童数は30人以下とされ、養護訓導を置くことも定められた。ここで初めて特別な学級、学校の統一された名称が定められたわけである。さらに1943(昭和18)年には中学校、高等女学校においても「身体虚弱その他身体に異常ある生徒」に対し養護学級の編制ができることとなった。

 先にあげた教育審議会の「諮問第一號特別委員会整理委員会会議録」8)によると、この国民学校令制定に先立って特別の学校の必要性について議論が交わされている。藤原恵は「肢體不自由児、其ノ他能力ノ著シク劣ル者、所謂低能児ノ如キ者ニ至ッテハ一般児童ト共ニ学習セシメ、共ニ教養ヲ施スコトハ到底至難デアル、肢體ノ不自由児ト同様ニ低能児ナルガ故ニ他ノ児童カラ軽侮ヲ受ケ、其ノ間又色々弊害ヲ見ル、ソコデ身體精神ノ故障ノ程度ガ到底一ツノ学校ノ中ノ学級編制等ノ方法ニ依リ難シイト云フヤウナ、異常ノ程度ノ強イ者ニ付テハ、御話ノヤウニ府県等ヲ単位トシテ特殊ノ盲学校、聾唖学校ノ如キ方法ヲ立テて行ク。サウシテ其ノ程度ノ未ダ甚シカラザル者に付テハ寧ロ予防的意味ニ於テ程度ノ甚シクナラナイ中ニ之ヲ喰止メテソレヲ矯正シ、斯カル児童ニ適応スルヤウナ教育ヲ施スノ道ヲ開クコトガ必要デハアルマイカト思ヒマス」と述べ、続いて委員長林博太郎は「盲聾唖竝ニ『クリップル』トカ『ディメンテッド』ノ者ハ侮辱ヲ受ケルト云フヤウナコトモアルカラ、是ハ特別ノ学級ト云ウコトデハナク、成ルベク特別ノ学校ヲ設ケテ特別ノ施設ヲスル、理想トシテハ特別ノ学校ガ良イケレドモ、併シ非常時デ、財政モ困難デアリ、而モ将来相当長ク続クノデアルカラ然ラザル限リハ成ルベクナラバ学校ノ中ノ学級ニ於イテ之ヲ収容シテ、特別ノ施設ヲシテ之ヲ教育シ、又特別ノ教員ハソレヲ師範学校ノ方デヤッテ貰フコトニシテ之ヲ彌縫シテ行クノハ今日ニ於テハ已ムヲ得ナイト云フコトニ帰着スルカト思ヒマス・・・」と述べ、特別の学校の設置が望ましいが当面は特別学級を中心とし、徐々に改善していきたいという方向性を示している。

 このとき、名称を「養護学級」「養護学校」に統一した理由については明らかではないが、田中13)は「養護学級の実態は病弱虚弱の養護学級がほとんどであり、養護学校は実態としてみるならば、肢体不自由児の光明学校と、精神薄弱児の思斉学校の2校のみであって、養護学級・養護学校における『養護』の概念と、国民学校における『養護』の概念の関係が論議されることもなく、学校教育における『養護』の教育作用の中に、主として病虚弱児の養護学級の『養護』の活動を含めて理解するにとどまった」として、教育の三要素としての「養護」と、病虚弱児の「養護」の関係の検討がないまま「養護学校」「養護学級」の名称決定に至ったであろうことを示唆している。当時の特別学級の大半が身体虚弱児のための養護学級であったことは確かであり、また特別な学校・学級の対象者が「特別養護の必要ありと認むるもの」であったことが名称に直接つながったことは大いに考えられる。また、国民学校令施行の前年1940(昭和15)年に全国連合学校衛生総会において「時局ニ鑑ミ在学者体位向上ニ関シ特ニ留意スベキ事項」14)の答申がなされており、その中に「養護学級、養護学校等ノ教育法規ヲ制定シ更ニ一般養護施設ト供ニ之ガ施設ヲ奨励普及セシムルコト」という一文が見られる。これは「在学者の養護鍛錬を一層徹底」するための方策の一つとして示されているものであるが、当時の時局的要請から国民体力の増強のために養護を特に重視していたことの影響が考えられる。国民学校令制定の直前、従来の文部省官房体育課を体育局に昇格させたこと、施行規則において「心身ヲ一体トシテ教育シ、教授、訓練、養護ノ分離ヲ避クベシ」と述べていること、同時期に養護訓導制度を取り入れたことなどからもそれが裏付けられる。この場合の「養護」は病虚弱児の養護を含む教育の三要素としての広義の養護であり、田中の指摘のように、この関係は明確にされていない。

 その後数年間は、法令規程を受けた文部省の奨励もあり、養護学級は漸次増加した。1944(昭和19)年には全国で2486学級に達したが、そのほとんどは身体虚弱児が対象であり、他の障害児についてはあまり行われなかった。戦時下の人的資源確保政策と、食糧事情悪化に伴う児童の体位・栄養低下に伴う虚弱化を反映したものである。しかしそれらも1946(昭和21)年には大部分閉鎖となった。

5.学校教育法

  1947(昭和22)年に制定された学校教育法では、第1条で小学校や中学校等と並列で「盲学校」「聾学校」「養護学校」と規定した特殊教育諸学校および「特殊学級」について、第6章特殊教育(第71条~76条)で定めている。ここで学校と学級の名称をこのように定めた背景について、「特殊教育百年史」15)では以下のように説明されている。まず、「従来『聾唖学校』と称してきたものを『聾学校』としたのは、『聾唖』という状態が聾教育の成果により予防しうるという実証に基づく聾教育関係者の主張を取り入れたものである。また盲・聾以外の心身障害児を対象とする学校を「養護学校」にまとめたことについては、『国民学校令施行規則』にある『養護学校』が名称として受け継がれたものと思われる。」また、第75条の「特殊学級」については、同書に次のような記述もある。「この条項は、文部省が作成した学校教育法草案にはもともとなかったが、総司令部民間情報教育局の係官の示唆によって挿入されたといわれている。いずれにしても、米国教育使節団報告書の趣旨に沿うものであり、それとともに戦前の小学校、国民学校、中学校、高等女学校に設けられた特別な学級や養護学級の系譜を受け継ぐものであったということができる。ただ第71条の『肢体不自由』と第75条の『その他の不具者』というように用語の整合を欠いていることや、既に『国民学校令施行規則・・・』において使用された用語『肢体不自由』が使用されなかったということなどは、短時日のうちに学校教育法の成案が急がれたという事実を物語っているともいえよう。」

 これについて、当時学校教育法の原案作成者の一人であり、初等教育や特殊教育の内容面を担当していた坂元彦太郎は、後日談として、法の公布2ヶ月前の1947(昭和22)年1月15日付の条文案と、同2月18日付の案とを示してそのときの経緯を書いている16)。その比較はTable3-1に示したが、これについて坂元は「(2月18日付の案では)『その他特殊教育を行う学校』といって、前案の養護学校の文字がなくなっている。(これは私が養護学校という言葉になじめなくて、もっと適当な言葉が見つかるまでというのでこういう表現をしておいたのであるが、たしかこれから後での法制局での条文の審議の最、このままではおかしいというので前案の養護学校を復活することになったと記憶している。)」と述懐し、また特殊学級については司令部CIEのヘファナン女史の意向で急遽追加されたものであることを述べ、上述の「学校保健百年史」の記述を裏付けている。さらに「今から考えて残念でならないのは・・・(用語が不ぞろいなのは)国会に提出する期限が迫ってつい見落としてしまったのである。」とし、十分な文言の吟味がなされることなく制定されてしまった事情がうかがわれる。

Table3-1特殊教育諸学校の名称に関する国民学校令および学校教育法の比較
国民学校令施行規則      (1941年) 学校教育法原案  
(1947年1月)

学校教育法原案
  (1947年2月)

学校教育法
    (1947年3月)公布

第七章 養護学校

第六章 特殊教育

第六章 特殊教育

第53条 

身体虚弱、精神薄弱其ノ他心身ニ異常アル児童ニシテ特別養護ノ必要アリト認ムルモノノ為ニ学級又ハ学校ヲ編制スルコトヲ得

第89条 

養護学校は肢体不自由、精神薄弱、身体虚弱及び性格異常等心身の異常または虚弱なものに対して、小学校、中学校及び高等学校に準ずる家庭の教育を行い、併せてその生活に必要な知識技能を授けることを目的とする。

第82条 

盲学校、聾学校、その他特殊教育を行う学校はそれぞれ盲者、聾者、精神薄弱者、肢体不自由その他心身に欠陥のあるものに対して幼稚園、小学校、中学校及び高等学校に準ずる教育を施し、併せてその欠陥を補うために必要な知識技能を授けることを目的とする。

第71条 

盲学校、聾学校または養護学校は夫々盲者、聾者、または精神薄弱、身体不自由その他心身に故障のあるものに対して、幼稚園、小学校、中学校または高等学校に準ずる教育を施し、併せてその欠陥を補うために、必要な知識技能を授けることを目的とする。

省令第55号

 

 

 

第1条 本令ニ於テ養護学級又ハ養護学校ト称スルハ国民学校令施行規則第53条ノ規定ニヨリリ編制セルモノヲ謂フ

 (特殊学級について         の記載なし)

第86条 小学校、中学校及び高等学校には、左の各号の一に該当する児童及び生徒のために、特殊学級を置くことができる。

第75条 小学校、中学校及び高等学校には、左の各号の一に該当する児童及び生徒のために、特殊学級を置くことができる。

第3条 養護学級又ハ養護学校ニ在リテハ成ルベク身体虚弱、精神薄弱、弱視、難聴、吃音,肢体不自由等ノ別ニ学級又ハ学校ヲ編制スベシ                  

一 性格異常者      二 精神薄弱者      三 聾者および難聴者  四 盲者及び弱視者   五 言語不自由者    六 その他の不具者   七 身体虚弱者           前項に掲げる学校は、疾病により療養中の児童及び生徒に対して特殊学級を設け、または教員を派遣して、教育を行なうことができる 

一 性格異常者      二 精神薄弱者      三 聾者および難聴者  四 盲者及び弱視者   五 言語不自由者     六 その他の不具者   七 身体虚弱者           前項に掲げる学校は、疾病により療養中の児童及び生徒に対して特殊学級を設け、または教員を派遣して、教育を行なうことができる 

         戦後日本の教育改革5 学校制度(東京大学出版会)16)を元に作成

第2節 特殊教育と養護教諭

 第2章で述べたように杉浦は、学校看護婦は歴史的にみて特別養護の担当者として各校に配置されるようになったとする。しかし現在、特殊教育における養護教諭の位置づけはそれとは異なった状況にあるように思われる。そこで本節では学校看護婦や養護教諭が特殊教育にどのように関わってきたかを具体的に検討し、そして現在どのような課題があるのかを明らかにする。

1. 養護学校の成立と養護教諭の誕生

 第1節では特殊教育において養護という用語が定着し、養護学校・養護学級という名称に用いられる過程を述べたが、それは学校看護婦の定着とも時期を同じくし、相互に呼応して発達してきているように思われる。そこで両者に関係する主な動向を年表に整理してみたものがTable3-2である。

 これをみると、身体虚弱児童の増加に伴って結核対策が奨励され、虚弱児に対する休暇集落などの開設が徐々に増えてくる時期と、常駐制の看護婦配置が始まり、トラホーム洗眼だけではない新しい任務(特別養護を担う)を持った学校看護婦が増加してくる時期は、いずれも大正時代後期から昭和初期にかけての時期であり、まさに一致していることがわかる。1926年に日本で最初の特別学級が鶴巻小学校に設置された際には、そこに同時に学校看護婦も配置されている。

 そして養護学校及び養護学級の設置が初めて法的に定められたまさに同じ国民学校令において、養護訓導も初めて法的に制度化されたのである。その背景として、当時の国民生活の窮乏、衛生状態の悪化、伝染病の流行といった社会情勢と、戦時体制へと向かう国家の思惑(皇国民練成を目的とした教育、鍛錬主義的施策および文部省による奨励など)の影響も大きかったとは思われる。しかしそれらの前提として、児童生徒の体位・体力の低下、身体虚弱児の増加、結核予防対策の必要性という実態がまず緊急の課題としてあったことも事実である。

 養護教諭の歴史およびわが国の特殊教育の歴史を総合してみると、「養護学校」と養護教諭(養護訓導)は、両者とも同じ要因の影響を受け、同じ課題に対応するために、同じ目的で発展し、成立してきたということができる。その要因とはすなわち大正時代に紹介された欧米の思想・制度の影響であり、その後の国家体制である。その目的は、結核対策の必要性と身体虚弱児の増加という子どもたちの緊急課題への対応であり、「特別養護」概念の定着に伴って発展してきているといえる。またこうした発展の影には、健康な子どもを育てたいと考える教育者、医療関係者、および学校看護婦たちの地道な努力があり、それが制度にも影響を与えた事実も見逃すことはできない。

Table 3-2-1 特殊教育の歴史と養護教諭の成立(1)

教育・医療の一般動向

特殊教育の動向

養護教諭に関わる動向

1872  M5

学制頒布

 

 

1889

 

三重尋常師範学校が転地教育を実施

 

1890 M23

教育勅語、学校令公布

松本尋常小学校に学業不振児学級

 

1891  M24

文部省学校衛生事項取調嘱託設置

 

 

1894  M27

小学校ニ於ケル体育及衛生の訓令

 

 

1898 M31

公立学校に学校医をおく勅令公布

 

全国的なトラホームの蔓延が問題化する

1900 M33

小学校令改正      身体検査規程公布

左記省令で就学義務免除・就学猶予の規程

 

1904 M37

日露戦争勃発   結核予防令公布

文部省、師範学校附属小に特別学級設置を勧奨

 

1905 M38

 

 

岐阜県において学校看護婦を採用する

1906 M39

 

精神薄弱児のための滝野川学園開設

 

1907 M40

文部省訓令「師範学校規程の要旨」

左訓令で師範付属小に特別学級設置奨励   東京高師附属小に補助学級開設

 

1910 M43

師範学校教授要目の内容に「養護」

 

 

1912 

T元

 

高松市四番町尋常小学校休暇集落(身体虚弱児対象)

1913

T2

日本結核予防協会設立

 

 

1917

T6

 

白十字会林間学校(茅ヶ崎)開設

 

1918 T7

結核予防法公布     トラホーム予防法公布

 

 

1920

T9

 

文部省主催「就学児童保護施設講習会」

 

1922 T11

伝染予防法改正

第7回学校衛生主事会議答申「身体虚弱者ノ監督養護ニ関シ学校衛生上注意スベキ事項如何」

文部省学校看護婦女高師附属校に配置   大阪市済美学区に一校駐在制学校看護婦配置

                                   

Table 3-2-2 特殊教育の歴史と養護教諭の成立(2)

教育・医療の一般動向

特殊教育の動向

養護教諭に関わる動向

1923 T12

関東大震災

盲学校及聾唖学校令公布

夏期集落の急増

学校看護婦執務指針

学校衛生主事会議答申「学校看護婦ノ適当ナル普及方法及職務規定」 

1924T13

学校伝染病規定改正

 

学校看護婦講習会を初めて開催

1925

T14

 

第4回全国連合学校衛生会総会答申「精神薄弱者ノ監督養護ニ関シ学校衛生上特ニ留意スベキ事項如何」

聖路加病院が学校診療所開設

学校看護婦が急増

1926 T15

 

東京鶴巻小学校に身体虚弱児童のための養護学級を開設

鶴巻小学校に学校看護婦配置

1928

 

 

学校看護婦の機関誌「養護」創刊

1929

S4

 

 

第1回全国学校看護婦大会開催        文部省訓令「学校看護婦ニ関スル件」公布

1931

S6

寄生虫予防法公布     満州事変勃発

文部省「虚弱児童養護施設講習会」  「精神薄弱児童養護施設講習会」 開催

 

1932

S7

欠食児への給食開始

東京光明学校開校                                第8回学校衛生技師会議、第11回全校連合学校衛生総会で身体虚弱児に関する答申

 

1934

S9

 

 

学校衛生調査会より学校看護婦令答申

1937  S12

 

学校身体検査規程公布:目的に「身体の養護鍛錬」が加わる

 

1938  S13

教育審議会が審議開始  国家総動員法公布

第14回学校衛生技師会議答申「学校体育ノ刷新振興ニ関シ衛生養護ノ適切ナル方策如何」

 

1941  S16

国民学校令公布   太平洋戦争突入

国民学校令により養護学校、養護学級が制度化

国民学校令公布により養護訓導が制度化

1942

 

整肢療護園開園

 

1945

終戦

 

 

1946 S21

体育局長通知「学校衛生刷新に関する件」

左記通知により養護施設・養護学級設置の奨励

左記通知により養護訓導設置を奨励

1947 S22

教育基本法・学校教育法公布

学校教育法により盲学校・聾学校・養護学校および特殊学級が規定される

学校教育法により養護教諭と改称

1949 S24

教育職員免許法公布        

中等学校保健計画実施要領発刊

 

左記要領で新しい職務内容提示

2.養護学校・養護学級における学校看護婦

(1)草創期の関わり

 東京市の鶴巻小学校に1926(大正15)年、初めて養護学級が設置されたとき、新入学児童261名のうち養護学級を希望するもの50名をさらに30名に絞り1学級を編制した17)。選考は精密な身体検査により、1.凹胸・鳩胸等胸部の発育不良なる者、2.頸腺腫脹・扁桃腺肥大等腺病質のもの、3.眼・耳鼻等の疾患著しきもの、4.曾て重患に犯され発育不良のもの、5.栄養不良の著しきもの、6.遺伝的疾患のあるもの等とした。開設直後、文部省はただちに日赤派遣の学校看護婦を配置してその執務のあり方と設置の意義について研究を行なった。その主要な業務は、次の通りであった18)

  1 養護学級編制直後の家庭訪問、家庭状況調査

  2 日常の養護の実施

     ア)毎朝の健康観察

     イ)週2回登校・下校時の検温

      ウ)学校給食時の指導

     エ)食事前後の衛生訓練・歯みがき指導

     オ)人工太陽灯の照射

     カ) 肝油投与

     キ)週3回清潔検査

     ク)郊外学習の付添

     ケ)月例発育調査と事後指導

     コ)一日の在校時間延長に伴う指導分担

     サ)夏季保健行事の指導分担

  3 月例保護者懇話会への出席

また養護学級の執務以外に、学校全体の保健衛生としてトラホーム治療、学校独自の訓練要目に基づいた衛生訓練、5,6年男子に対する赤十字少年団救急法指導、同女子に対する女子衛生初潮指導を行なった。

 この後昭和時代に入って養護学級の数は急増するが、このような養護学級では、検温、検脈、うがい、はみがきの実行、外気浴、日光浴、人工太陽灯照射、栄養給食、肝油の服用、裸体体操などの指導がおこなわれた。学校看護婦もこれらの衛生方面の担当として活躍したという。1941(昭和16)年の国民学校令施行規則に関わる規定で養護学級を編制した学校及び養護学校に必ず養護訓導を置くことになったのは、こうした学校看護婦の実績によるものと考えられている。

 養護訓導の制度ができてからもしばらくの間は虚弱児の増加という健康実態が続き、養護訓導の仕事内容に大きな変化はみられなかったようすが次の一文19)からうかがわれる。これは1940(昭和15)年に採用されて以降千葉市の小学校に勤務した養護訓導の追想である。「主な仕事に養護学級への介助があげられます。・・・毎日三学級を回り、液体肝油を注入器で口に入れ、口直しにドロップを投与。午前と午後には一回必ず検温で、結核蔓延時代でしたので、有熱児童は特にチェックしたのです。太陽灯照射には三学級の児童は毎日保健室通いです。太陽灯を一定時間、胸部や背部に当てたものです(今考えると、自然の太陽光線が得られたのに、なぜ太陽灯がと思われるのですが)」。

 1947(昭和22)年の学校教育法施行では、小学校、中学校、盲・聾・養護学校に養護教諭を置くことになったが、第103条〔養護教諭についての特例〕で、小学校及び中学校には、当分の間、置かないことができるとされた。これは即ち、法的に必ず養護教諭を置かなければならないのは盲・聾・養護学校のみということであり、特殊学級設置校への配置には触れられていない。当初、特殊学級は依然として虚弱児を対象としたものが圧倒的に多かったが、昭和30年代に入るとその数は激減し、代わって精神薄弱児の特殊学級が急増してくる。特殊学級の種別の変更、児童生徒の実態の変化に伴い、虚弱児の養護に当たっていた養護教諭の関わり方は徐々に変化して行ったと思われるが、この時期の養護教諭の特殊学級への関わりについての研究はほとんど見られない。

 また次々と新設された養護学校にも養護教諭が配置されていったが、教育課程編制もまだ進んでおらず、試行錯誤の中で教育が行なわれ、養護教諭の関わり方も確立していなかった。関西で初めての肢体不自由養護学校として1957(昭和32)年に開校した大阪府立堺養護学校に養護教諭として勤務した大塚は、当時の様子を次のように述べている20)。「創立1年目の養護学校は、児童生徒63名、職員20数名の小さな学校で・・・驚いたのは職員の偏見による看護婦蔑視でした。(中略)2年目には機能訓練を何時間か受け持つことになりました。開校当時は「機能訓練」と「言語訓練」に分かれ、盲学校理療科出身者が体育教師と組んで前者を受け持ち、教育学部出身者が言語を担当し、訓練を集中的に受けていました。(養護教諭のための)研修機関はどこにもなく、校医(整形外科医)からも、障害児医療そのものが始まったばかりということで何の助言も得られませんでした。現在行われている給食介助もトイレ介助も教育であるなどという考え方は当時は思いも及ばないことでした。そして養護教諭の仕事は救急処置と健康診断準備と、後片付けと事務処理・報告が中心で、その上トイレに石鹸を置いたり、廊下に消毒液、汲み取り式トイレの蠅の駆除、予防接種の介助等であるとして、職員保健委員会を開催しても注文ばかりでした。」

(2)現在の特殊教育と養護教諭

 現在の特別な支援を必要とする児童生徒に対する養護教諭の関わりは、当初と比べ大きく変化していると思われる。これについて近年報告された研究を概観し、課題を明らかにする。

 特殊学級と養護教諭の関連についての研究は少ないが、それは現在の特殊学級に養護教諭が関わることが非常に少なくなった現れと見ることができる。本間21)は特殊学級設置校の養護教諭に調査を実施し、特殊学級児童生徒の保健室利用は少なく、保健指導等も主に学級担任が行なうため、日常的には学校での様子の観察程度の関わりである者が40%前後であったことを報告している。養護教諭は、特殊学級の児童と接するときに特別視しないよう心がけ、健康診断や個別対応の際には本人の状態に合わせて働きかけ方を工夫していた。中には性教育の実施や保護者・医療との連携などの必要性を強く感じている者もあったが、現状ではまだ十分に行われていなかった。その理由として事務処理的な仕事も多く時間的に余裕がない、教師も多忙で校内の連携にも影響がある、医療機関や専門機関が近くにない、などがあげられていた。また養護教諭複数配置などの改善を強く望む声もみられた。

 養護学校における養護教諭のかかわりについては、横山・金田22)の報告がある。養護教諭が認識する主たる職務は健康管理であり、その他(教職員等の)相談活動などもあげられていた。健康管理や保健指導の実態は知的障害、肢体不自由、病弱の校種別の差はあまりなく、養護教諭が直接児童生徒に関わるよりも担任を通して行なうことが多く、養護教諭は校内の巡視や担任との情報交換などを通常学校よりも積極的に行っている。また保健室に児童生徒の個人ファイルを用意して、収集した情報を整理活用している。課題として、障害の重度化・多様化や職務の多忙化により、保健指導の実施が困難になっていること、関係者との連携などがあげられる。改善の必要がある連携の対象としては学級担任、併設の病院、看護婦(東京都のみ)などがあり、十分なコミュニケーションがうまくとれない場合に養護教諭の不満や悩みにつながっていた。学校と医療機関の相互理解の必要性や、日ごろからの人間関係、協力関係の重要性とともに、職場で1人または2人職である養護教諭の研修機会の必要性も示唆されている。

 橋本らは知的障害養護学校保健室における教育支援及びコンサルテーションの実態について調査した。保護者から相談を受けたことがある養護教諭は78%、児童生徒からの相談は51%であり、障害に関する専門的知識と同時に人間関係などの悩みにも答えられる力量が必要とされている。また教育活動への支援としては、直接授業を担当することは少ないが、行事や保護者会その他さまざまな場面で支援を行なっていた。個別指導計画の検討やケース会議などへの参加は少なく、必要に応じて個別に相談するというものが多かった。その結果、担任によって養護教諭と相談する者としない者の差が見られ、時間的制約や教師の姿勢の違いが指摘されている。養護教諭と学級担任で意見の食い違うことが「ある」としたものは34.5%、「ない」が61.8%で、その内容は保健室の役割に対する認識や、健康への十分な配慮を求める養護教諭と、担任の実際の配慮や指導法の違いなどさまざまであった。

 毛利・杉田24)は、重複学級を設置する養護学校と医療機関との連携の実態について調査を行い、養護教諭のかかわりについても考察している。学校から医師への医療相談を実施したのは全体の47%であり、必要性があると判断した者の74%に当たる。その方法は79%が保護者を通じてであり、その96%が目的等について保護者に説明を行なっていた。担任と養護教諭は普段から話し合いを持っているが、医療相談前に話し合いをしたのは67%にとどまっていた。医療相談後、保護者と話し合った担任は90%、養護教諭と話し合ったのは88%であった。担任や養護教諭が直接主治医等と会って相談したことがあるのは41%であったが、医師からの回答に納得できた割合(85%)が間接的な回答に比べ高かった。普段つけているてんかん発作、睡眠、排泄などの記録を見せて相談したのは20%にとどまった。医師側からは、具体性のある質問、子ども主体の質問を望む声が多く、文書回答が望ましいかどうかや、相談時間の設定については意見が分かれていた。課題としては保護者との共通理解の必要性、養護教諭の専門性の向上(研修)と、担任との協力関係、相談方法の検討などがあげられた。

 また猪狩25)26)は、近年の特別なニーズを持つ子どもの通常学級への就学をふまえ、通常学級に在籍する病気療養児について研究を行なっている。東京都内の養護教諭対象の調査では、ほとんどの学校に何らかの病気療養中の児童生徒が在籍しており、その内訳は喘息、アレルギー、肥満が最も多いが、管理の必要性についての規準が明確でないため、養護教諭によって判断が異なっていた。学校で行なう健康調査票では健康状態の把握が十分でなく、保護者からの報告もまちまちであることなどから家庭との連携に課題があることが指摘された。学校の対応としては、個人面談、ケース会議、体育見学や軽減、行事参加での配慮などがあり、病弱教育機関、スクールカウンセラー、児童福祉関係との連携はいずれも低率であった。養護教諭は「個人的な相談」「健康の観察や指導」「担任への情報提供」「保護者との連絡」などの健康管理を中心にかかわっており、学校医・主治医との連携は少なかった。学校医制度の充実や、福祉関係機関との連携による生活支援、さらには教育・医療・福祉の総合的なケア・サポート・システムの構築が求められていた。一方、保護者対象の調査では、病気療養児の学校生活についての相談は主に担任を介して行なっているが、報告・相談により制限や偏見につながることもあり必ずしもメリットがないとする回答もあった。

(3)医療的ケアへの関わり

 近年、教育と医療に関わる課題のひとつとして、学校における医療的ケア問題が注目され、養護教諭の関わり方についても、まさに養護教諭のアイデンティティを問われる問題として議論されている。ノーマライゼーションの理念の普及、医療技術の進歩、医療法改正による在宅医療の進展などにより、医療的ケアを必要とする学童の通学の増加が議論拡大の要因となっている。

 医療的ケアのとらえ方はさまざまな解釈があるが、現在問題となっているのは、保険診療で在宅医療と認められている行為(①痰の吸引、②自己導尿の補助、③鼻腔栄養経管栄養、④気管切開部位の管理、⑤酸素吸入等)であり、各自治体がさまざまな対応を模索中である。最近まで文部科学省と厚生労働省の見解には温度差が見られたが、1998年両者の協議により前述の①~③については研修の実施や医療バックアップ体制等の一定の条件下で、限定的に教員による実施が可能とされた。そしてモデル事業として10県の教育委員会に委託して「特殊教育における福祉・医療との連携に関する実践研究」を実施している。昨年2002(平成14)年に文部科学省・厚生労働省連携協議会として報告書をまとめ、新たに「訪問看護スキーム」を提唱し、その活用について継続研究を行なっている。これに対して日本小児神経学会は「看護婦の配置だけでは解決しない。また訪問看護師や教員が派遣看護師では不十分である」旨の意見書を提出している。

 すでに大都市圏の養護学校では教員が医療的ケアを実施してきた経過がある。そこでは医療的ケアに健康管理としてではなく、一つのコミュニケーション手段としての教育的意義を見出している報告27)28)があり、北住29)は「関係性が専門性を超えている場合がかなりある」と述べている。そうした視点から、より子どもに近い立場の教員が十分な研修の上で教育の一環として、一定程度のケアを実施できるようにすべきだとの主張がある。一方で養護学校には看護師免許を持つ養護教諭を配置し、養護教諭により高度な医療的ケアを担当させることが望ましいという主張もある30)。看護婦を導入しても職務が重なる上、アメリカのスクールナースのような教育と分離した保健体制となる懸念があるため、学校に常勤する養護教諭が担当するのが適当であるという考え方である。また地域看護の一角に学校保健を位置づける立場からも、ヘルスケアの担当者として、高い看護能力を身につけた養護教諭養成が期待されているとする研究も見られる31)。しかし、第1章で見たように、養護教諭は長期にわたる身分確立運動の末に学校看護婦から切り替わった教育職員であり、看護師養成に頼らない独自の四年制大学での養成が確立してやっと20余年経過したに過ぎない。看護師免許を基礎とする養成に強い抵抗感を持つ養護教諭や養成機関教員も多い。また仮に看護師免許を持つ養護教諭であっても、教育職員として採用されている現行の制度の中では看護師として医療行為を行なうことできないのである。小中学校の養護教諭を対象とした調査32)では「医療行為を伴うケアを養護教諭が実施すべきでない」と回答した者が多く、看護婦資格の有無による有意差はなかった。これは現在の学校現場において、医療行為を伴う看護より、健康教育や健康相談活動に重点を置くべき児童生徒の実態を反映しているものと推察できる。

第3章のまとめ

 特殊教育の中で、「養護」にもっとも関係するものは病弱教育であった。大正から昭和時代にかけて休暇集落、林間学校、臨海学校、健康学園などさまざまな形態の病弱教育が行なわれた。大正末期には、普通小学校への特別学級開設も始まった。この最初の学級は1926(大正15)年設置の東京市の鶴巻小学校とされる。アメリカの影響を受け、開放学級などと称した特別学級は、昭和に入って急増し、その名称も「養護学級」が徐々に一般化した。養護学級急増の最大の要因は、結核対策にあった。富国強兵策により青少年の結核対策が重視され、後には国庫補助も行なわれるようになった。これらの結果、精神薄弱児の「補助学級」が減少していったのとは対照的に、身体虚弱児の「養護学級」は増加を続けた。1942(昭和17)年の養護学級1682学級のうち身体虚弱は1616学級(96%)であり、この時代の特殊教育といえば身体虚弱教育をあらわしていたのだといえる。

 1941(昭和16)年の国民学校令施行と同時に初めて「養護学級」、「養護学校」の編制が法的に示された。このとき、名称が「養護学級」「養護学校」に統一されたが、その際、教育の三要素としての「養護」と、病虚弱児の「養護」の関係の検討が十分なされたわけではなく、当時の特別学級の大半が身体虚弱児のための「養護学級」であり、また特別な学校・学級の対象者が「特別養護の必要ありと認むるもの」であったことが名称に直接つながったと考えられる。

  1947(昭和22)年に制定された学校教育法で、学校・学級種別を「盲学校」「聾学校」「養護学校」「特殊学級」と定める際にも、短時日のうちに成案を急いだ様子をうかがわせる資料がみられた。

 特殊教育における養護の動向(養護学校・養護学級という名称に用いられる過程)と、学校看護婦の動向を年表に整理した結果、両者は「特別養護」概念の定着に関わってほぼ同時期に、相互に呼応して発展していた。

 現在の特殊学級には養護教諭が関わることは非常に少なくなっっている。在籍児童生徒の実態の変化がその要因であろう。また養護教諭の職務も変化し、特殊学級以外の児童生徒への対応に追われている現状がある。養護学校における養護教諭の職務に関する研究では、障害の重度化・多様化により、関係者との連携が課題となっていた。改善の必要がある連携の対象としては学級担任、併設の病院などがあり、十分なコミュニケーションがとれない場合に養護教諭の悩みにつながっていた。また通常学級に在籍する病気療養児についての研究では、学校の健康状態の把握が十分でなく、家庭との連携に課題があることが指摘されている。養護教諭は健康管理や相談活動を中心にかかわっているが、学校医・主治医との連携は少なかった。学校医制度の充実や、福祉関係機関との連携による生活支援、さらには教育・医療・福祉の総合的なケア・サポート・システムの構築が求められていた。

第3章文献
1)杉浦守邦:養護教員の歴史、東山書房、1974
2)文部省:特殊教育百年史、東洋館出版社、1978
3)日本学校保健会・文部省:学校保健百年史、第一法規出版、1973
4)全国病弱虚弱教育研究連盟病弱教育史研究委員会:日本病弱教育史、pp16-21,1990
5)前掲書3)pp213-219
6)芦田千恵美:大正~昭和初期の養護学級に関する一考察、日本大学人文科学研究所研究紀要37、pp187-202、1989
7)同上、pp191
8)田中勝文:「養護」概念の検討、愛知教育大学研究報告30(教育科学編)pp154-165、1981
9)小倉学:学校保健活動、pp56-57、東山書房、1974
10)小倉学:養護教諭―その専門性と機能―、pp44-45、1970
11)前掲書3)、pp202-203
12)前掲書4)、pp47-49
13)前掲書8)、pp159
14)前掲書3)、pp663-665
15)前掲書2)
16)山内太郎編:戦後日本の教育改革5学校制度、東京大学出版会、pp413-449,1972
17)前掲書3)、pp219-221
18)前掲書1)
19)及川うた:学校看護婦として就職してから、日教組養護教員部三十年史、pp17-19、1982
20)大塚睦子:障害児に学ぶ教育の原点、pp23-32、農山漁村文化協会、1994
21)本間喜久:特殊学級設置校における養護教諭の役割と機能、北海道教育大学情緒障害教育研究紀要 第9号、pp79-86、1990
22)横山由美・金田鈴江:養護学校に勤務する養護教諭の現状、学校保健研究37、pp484-492,1996
23)橋本創一ほか:養護学校保健室における教育支援とコンサルテーションに関する調査研究、保健の科学43(5)、pp409-414、2001
24)毛利清美・杉田克生:重複障害児に対する「健康の保持」の指導―医療機関におけるよりよい学校・医療機関・家庭の連携を探る―、学校保健研究43、pp83-92、2001
25)猪狩恵美子・高橋智:通常学級在籍の病気療養児の実態と特別な教育的ニーズ、東京学芸大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要第26集、pp41-72、2002
26)猪狩恵美子:通常学級在籍病気療養児の学校生活に関する実態調査報告書、平成11年度東京都大学院派遣研修報告、2001
27)佐々木圭子:医療的ケアの実践から見えてきたこと.「医療的ケア」ネットワーク、かもがわ出版、2001
28)吉田麻衣:子どもの可能性をひらく.養護学校の教育と展望115,pp26-30、1999
29)北住映二:全国肢体不自由養護学校での医療的ケアの実施状況と課題-実態調査の結果から、『はげみ』平成10年度12・1月号、pp14-19、1998
30)杉本健郎:養護学校での医療的ケア、学校保健研究44、pp101-105、2002
31)津島ひろ江(2000)学校における医療的ケアへの対応に関する研究-法の整備とケア提供者の養成を中心に-.川崎医療福祉学会誌,10(2),263-272
32)大川尚子ほか:学校における医療的ケア―養護教諭の意識調査―、学校保健研究44、Suppl、pp308-309、2002



第4章 近接領域における養護的概念と養護教諭[to top]

 養護教諭に関わる「養護」と近接する領域は多数かんがえられるが、そのうち特に近年議論される機会が多い国内外の看護領域の職種との共通点・相違点について第1節で検討する。第2節ではその他の領域のうち特に福祉領域と臨床心理学の領域を取り上げて検討する。

第1節 看護と養護

 養護教諭という制度が誕生して以来、いかに戦前の学校看護婦とは異なる教育職としての新しい専門性を構築するかが課題となり、それを看護婦との違いを明確にすることから導き出そうとする試みがなされてきた。養護と看護はどのように異なるのかの議論は養護教諭及びその養成関係者の間で長く議論され続けている。それは養護教諭独自の理論の構築が未だ十分でなく、養成に際しても既存の看護学を不本意ながら援用してきた経過があるためであろう。また現在も看護師免許を基礎資格とする養成機関が多数あり、また保健師免許取得者が申請のみで養護教諭免許状を取得できる制度も残るなど、名称としては学校看護婦から養護教諭へと発展を遂げたものの、その内実において養護の独自性が現在においても確立しえていないためであるとも考えられる。

 そこで本節では、まずこれまでの看護と養護をめぐる議論を整理したうえで、看護の概念や歴史を概観し、養護概念との共通点、相違点を検討する。また諸外国のスクールナースと日本の養護教諭との相違についても考察する。

1.養護と看護の概念をめぐる議論

 1968(昭和43)年の第15回日本学校保健学会シンポジウム「養護教諭の職務内容とその養成」において、「養護をつかさどる」という学校教育法の規定に関する議論があり、それが発展した形で1972(昭和47)年の同学会から8年連続して「学校看護をめぐる自由集会」が企画され、養護と看護について集中的に議論が行なわれた。そこでは「学校看護とは」「養護教諭にとって必要な看護能力とは」といったテーマで検討が行なわれた1)。当時は看護婦資格を持たない多様な養護教諭の養成が開始された時期であり、養成機関の教師の「看護学をどう教えるか」という実践的課題意識に即して議論が展開された。参加者には看護学をバックボーンとして学校看護を考える立場と、看護学とは別に養護を考えようとする立場があり、さらに看護の捉え方にも意見の相違がみられた。すなわち、看護の概念を拡大すれば基本的技術については養護も大差ないと考える意見と、看護を臨床看護の概念で狭く考えれば、養護はもっと広い概念を持つという意見である。しかし看護婦養成の看護教育とは異なる「看護学」の存在の必要性や、免許に関わらず専門的な分野として独自の学校看護学が必要であることについては共通理解がもたれた。

 当時の主張の中で飯田2)は、新しい看護の概念(広義の看護)を尊重する立場から「看護と養護は基本的な考え方において違うものではないが、働く場と対象、その内容に違いがある。・・・学校看護の場合は教育的機能を持つ個人及び集団の中で看護の機能が生かされていく、即ち一般教師とは異なる質の健康の援助が行なわれる」と述べる。また池田3)は「(総合看護の中に養護を含めることに積極的に反対することはできないが)学校という場におけるHealth careは教師と被教育者との間に行なわれる感化的な教育作用であり、健康な国民の育成=人間形成の視点に立つHealth careでなければならない」として、教育活動としての独自の看護学の構築を提唱している。

 その後「養護教諭に求められる看護能力」などのテーマでいくつかの散発的な議論があるのみであったが、近年、教育職員免許法および施行規則の改正(免許状取得のための養護に関する科目の最低修得単位数の変更)に伴う養成カリキュラムの問題や、医療的ケアへの対応などをめぐって、基礎資格の妥当性や看護活動との相違点などが再び議論されるようになってきた。

 工藤4)は、看護学系の文献においては、「養護教諭が看護職というくくりの中で記載されている」とし、地域看護活動の一分野として学校看護が紹介され、その担当者として養護教諭が位置づけられている例を紹介している。そしてそのような位置づけでとらえている看護学系研究者にその違いを説明できる「養護」の体系的理論が確立されていないことを指摘する。また第3章で検討した医療的ケアに関わる研究を行なう医学・看護学系の研究者の中にも、「学校に医療依存度の高い児童・生徒が増加する中で、高い看護能力を身につけた養護教諭への期待が高まっている」「医療的ケアの担当者として、養護教諭は看護師免許と臨床経験・研修が必要」という主張も根強くみられ、養護教諭の教育者としての機能が一般に十分理解されていないことがうかがわれる。

2.看護の定義

 保健婦助産婦看護婦法(1948年制定、2001年11月保健師助産師看護師法に改正)において、看護師、助産師は次のように規定されている。

2条 この法律において「保健師」とは厚生労働大臣の免許を受けて、保健師の名称を

  用いて、保健指導に従事することを業とする者をいう。

第5条 この法律において看護師とは、厚生労働大臣の免許を受けて、傷病者もしくは

  じょく婦に対する療養上の世話または診療の補助を行なうことを業とする者をいう。

ナイチンゲール以来、看護にはさまざまな定義があるが、近年の新しい考え方は、看護の範囲を広くとらえる傾向がある。ヴァージニア・ヘンダーソンの協力で国際看護協会が定義した理論は「看護独自の機能は健康・不健康を問わず、各個人の手助けをすることである。・・・健康生活、健康の回復(あるいは平和なる死への道)に寄与する活動・・・そして、患者あるいは健康な人の場合でも、その本人を助けて、できるだけ早く自分で自分の始末ができるようにするといった方法で、この活動を行なうことである」としている。日本看護協会は「看護とは健康・不健康を問わず、個人または集団の健康生活の保持増進及び健康への回復を援助することである(以下略)」とし、また最も歴史があり国際的影響力も持つ米国看護協会American Nurses Association(1980)の定義は「現にある、あるいはこれから起こるであろう健康問題に対する人間の反応を診断し、かつそれに対処することである」としている。これらに共通するのは、看護の対象を「健康であると不健康であるとを問わず」「さまざまな健康の段階にある全ての人々」ととらえ、「健康の保持・増進、健康の回復、あるいは安らかな死」のために「個人又は集団に手助けする」ということであろう。

 池田5)は、1960年代に拡大されてきた新しい看護の概念を次のように説明する。「医療における医師・看護婦と患者の関係は教育的関係(Educational Relationship)であり、医師と看護婦は、医師をリーダーとするチームワークによって患者に対しサービスを行うものであること、看護の役割は、臨床看護(診療の補助及び療養上の世話)の範囲を超え、健康のあらゆるレベルに対し、個人、集団・年齢を問わず、より健康的に日常生活を営むことができるように援助することであること、従来の疾患を中心とする看護法の教育から、人間の生活そのものに直面する看護学へと視点を変え、成人、小児、母性それぞれの人間理解に基づく疾患の看護と保健が新たに加わった。このような総合看護(包括看護 Comprehensive Nursing)の立場は、従来の役割に教育的要素も加えたものであり、学校看護、ひいては養護をも包括するということもできる」。

3.看護と養護の共通点・相違点

(1)概念としての共通点・相違点

 上記の定義のように看護の概念を幅広くとらえた場合、対象者(健康であるかまたは健康問題がある者)、目的(健康の保持増進、健康の回復を目指す)、いずれも養護と共通であると見ることもできる。岡田6)はまず養護と看護の主たる対象を比較し、「看護は疾病等、明らかに健康上の問題を持つ子ども個人の方が多く、養護教諭は健康問題を持つ子どもを対象としてはいても、多くは健康問題が顕在化していない、一見健康といわれる児童であろう」として、Fig.4-1を示している。また、活動の場としては、看護は人々の存在するところ全てであり、養護の場合は学校が中心ではあるが、ヘルスプロモーションの観点から、学校から外に向かって活動を発信させていかなければならないものとする。(Fig.4-2)

 しかし岡田は「これだけでは看護の対象と場の拡大から、看護婦が学校で活動してもよいという意見も存在するであろう」として、これで養護と看護の相違を説明できるものではないことも指摘する。従って工藤が懸念する「学校で看護をするのが養護教諭」という理論を否定することができない。看護と養護の相違点、養護教諭の独自性をさらに追求する必要がある。

   Fig.4-1.養護と看護の主たる対象の違い


 

7)は養護と看護の違いを、薄井担子(科学的看護論、日本看護協会出版、1974)の表(Table4-1)に求め、看護の方法論として、看護技術を「看護観の表現技術=科学としての看護論の適用である技術」とする。養護技術と看護技術の違いは「どのような対象に対して、どのような目的を持って表現技術を問題にするか」であり、養護観の本質的な特徴は「教育として」「発達の可能性を伸ばす」ところにあるとする。すなわち「教育とは、人格的な発達をとげて、いわば人間らしい人間に成長していく営み」であり、「教師が子どもにどのような人間(姿)になってほしいのかという価値的な人間観」に指向された人間形成のいとなみであることを述べ、「医学の(治療の必要性からくる)緊急な目標を達成するため」の「科学的な人間観」に比重のある看護技術と異なると述べる。

Table4-1 養護と看護の違い(薄井担子、1974による)

養護

看護

目的・目標論

発達(身体・感情・認識)の可能性を伸ばすことの援助

生命力の消耗を最小にするよう生活過程

を整えることの援助

対象論

健康な子ども個人と集団

疾病や異常を持つ子ども個人

方法論

養護観の表現技術

看護観の表現技術

(科学としての看護論の適用である技術)

Table4-2欧米のスクールナースと日本の学校看護婦との違い(杉浦8)による)

所 属

担当校数

活動形式

監督者

情報源

対象把握

対象者の症状

救急処置

スクールナース

衛生部局

多 数

巡回訪問

ナースステーション所長

家庭医

家庭医からの通報

要服薬要治療

任務にあらず

学校看護婦

教育部局

1 校

常駐勤務

学校長

学校医

身体検査の結果

要観察低健康

任務に含まれる

 

た。養護訓導として教育職員の制度を確立した日本とは対照的である。

 杉浦8)は当時の欧米のスクールナース(現在もその形態はほとんどそのまま変わっていないという)と日本の学校看護婦を比較して、Table4-2を示し、その相違点を明らかにしている。

(2)今日のアメリカのスクールナース

 アメリカの学校制度は全国一律ではなく、州あるいは学校区school districtによって異なる。面澤の報告9)および藤田の著書10)より、概ね共通する状況を挙げると次のようになる。

 スクールナースの資格は州看護協会から出された看護婦免許となっている州がほぼ100%であり、基本的には病院や地域で働くナースと同等の資格であるが、呼称は地域によって少しずつ異なっている。州によっては基礎資格に加えて学士号をもち、所定のスクールナース養成コース修了を要件にしている場合や、何らかのスクールナース資格証明制度を設けている州も約64%ある。中にはアメリカ独自のナースプラクティショナーの資格を持ち、軽度の疾病の診断や治療ができるスクールナースもいる。所属は学校区所属、公衆衛生局所属などさまざまであるが、近年は学校区所属の割合が増えてきている。勤務形態は平均3~4校兼務で、所属する学校区等のオフィスから出向するのが一般的であるが、これも州によりばらつきがあり、地域の実情によって1校1名配置の学校区もある。また非常勤のスクールナースを含めても、全体の4分の3程度の学校にしか配置されていない。

 スクールナースの役割は、基本的にはヘルスサービスの提供者という位置づけである。School Health Servicesの内容には次のようなものがあり、ほとんどがスクールナースが関与する仕事である。

①Identification of Barriers to Leaning(Screening、Teacher Observation and Referral)②Cumulative Health Records

③Management-Health Policies/Procedures(Emergency Care、Communicable Disease Control、Administration of Medications)

④Health Counseling/Education

⑤Direct Nursing Care

 面澤による質問紙調査では、最も重要と考える活動は①さまざまなヘルスサービス(予防接種、投薬など)、②重大な健康問題を持つ児童生徒のための保健管理計画の作成、③健康記録カードや保健調査票の管理、④子どもたちの健康問題の追跡、⑤健康問題発見のためのスクリーニング、⑥学校保健諸活動の計画と組織体制作り、⑦ヘルスカウンセリングなどが上位であった。日本の養護教諭が行なわない臨床医学的活動に比重があるのが特徴である。また仕事の中で障害のある生徒に対するケアの占める比重が大きい。全障害児教育法の施行以後スクールナースの配置が広がったのもその表れである。IEPチームのメンバーとして、障害の程度や健康状態の評価も行なうという。鎌田ら11)が示した日米の比較がTable4-3である。


                    Table 4-3 アメリカのスクールナースと日本の養護教諭の比較

アメリカ合衆国

日  本

国の管轄

教育・保健・福祉省の一つ

文部科学省・厚生労働省の分離行政

機 能

ライフステージの一環・総合行政

児童生徒/母子・地域/労働・産業の分離

養 成

看護学部のナース養成の中で

スクールナース(4年、B.S)
大学院 ナースプラクティショナー6年、M.S)

    プラクティショナルナース

大学、短大、専門学校と多様な養成

養護教諭 4年、B.S

     2年

採 用

A.学校長の採用

B.保健センター職員として採用  学校や地域に派遣

・教育委員会の採用

・各学校の教職員としての位置づけ

・財源は教育委員会

 一方、植田12)は日本の養護教諭をアメリカのスクールナースと比較して、その特徴として以下の点をあげる。

1.教育職員としての職制が早い時期に確立したこと

2.行政が中心となってあるいはリードして制度化、役割の明確化がなされてきた。

3.専門職としての役割・能力の主張(がアメリカに比べ少ない)

4.大学院入学資格の弾力化(養護教諭養成の高学歴化の遅れ)

5.マネージメント能力、コーディネーターとしての役割の主張(が必要)

  子どもとの「距離」の近さ(養護教諭は子どもに近い位置にいる)

 植田によると、アメリカはANAやASHAなどの団体による研究が先行し、スクールナースの役割や活動指針を打ち出しているのに比べ、日本の養護教諭団体は主張が少ないという。植田によるアメリカのスクールナースの動向と日本の学校看護婦・養護教諭の動向をTable4-4で比較した。近年アメリカでは、生徒のさまざまな健康問題に総合的に対応するセンター構想により、School-based health centers(clinics)が増加しつつある。現在主に公立高校に設置され、メンタル的な症状や10代の妊娠、育児等に対応しており、そこでは臨床心理士、臨床ソーシャルワーカー、臨床健康教育者、ナースプラクティショナー、栄養士、医師、スクールナース等によるチームアプローチが考えられており、そこでのスクールナースのコーディネーター、リーダーとしての位置づけが主張されているともいう。

Table 4-4 諸外国のスクールナースの歴史と養護教諭

諸外国のスクールナース

日本の養護教諭

1893   M26

ロンドンで貧民学校児童の疾病治療のため看護婦が学校訪問

 

1900

ロンドン学校看護婦協会設立

 

1902 M35

学校看護の制度化。最初のスクールナースがニューヨーク市に採用される。

 

1904

イギリス学務局が学校看護婦採用

 

1905  M38

 

岐阜県において始めて学校看護婦が採用される

1908

ドイツ・シャルロッテンブルクで学校看護婦配置

 

1913

公衆衛生看護協会に学校看護委員会がつくられる

 

1917   T6

学校看護に関する最初の書物「スクールナース」出版される

雑誌『日本学校衛生』にアメリカのスクールナースが紹介される

1920

ニューヨーク州で教職員としてスクールナースが置かれる

 

1922 T11

 

文部省学校看護婦を派遣            大阪に一校駐在制学校看護婦配置

1928

 

学校看護婦の機関誌「養護」創刊

1929

 

訓令「学校看護婦ニ関スル件」公布

1941  S16

 

国民学校令公布により養護訓導が制度化

1947

 

学校教育法により養護教諭と改称

1948

ANAが大学卒を看護職の規準とする

 

1949

 

中等学校保健計画実施要領で職務内容提示

1952

ANAがスクールナースの活動指針作成を始める

 

1956

ASHA「学校看護の政策と実践についての勧告」公表

 

諸外国のスクールナース

日本の養護教諭

1961    S36   

ANA公衆看護部門スクールナース部会でスクールナースの機能と資格明示

 

1965

 

国立養護教諭養成所(3年制)の設置

1987    S42   

ASHA「学校保健活動におけるナース-学校看護のための指針」出版

 

1970    S45   

コロラド大学でスクールナースプラクティショナーのプログラム開設(1987年に改組)

 

1972

 

保体審答申に養護教諭の役割明記

1973    S48   

ANAとASHAが共同でスクールナースプラクティショナーの養成と機能について勧告

 

1975    S50   

全障害児教育法により障害児教育メンバーとしてスクールナースの役割強化

国立大学に養護教諭養成課程設置

1983    S58   

ANA「学校看護実践の規準」出版         School-based health centers(clinics)が設立

 

1993   H5   

スクールナース協会『学校看護実践-その役割と規準-」出版

大学院修士課程(養護教育専攻)が設置される

1994

学校保健のための全米看護連盟設立

 

1995   H7   

CDC 『全米における学校保健政策とその実行に関する研究』の結果を報告                        イギリスで1年間のスクールナース養成コースができる

学校教育法改正:保健主事になれる

1997   H9

修正個別障害者教育法(IDEA'97)制定

保体審答申に養護教諭の新たな役割が示される

1998  H10

 

教免法改正:養成カリキュラムの変更・教諭として保健授業を担当できる

2000   H12   

Healthy Reople 2010でスクールナースを児童生徒750人に1人の割合に

 

2001   H13

CDC 『全米における学校保健政策とその実行に関する研究』2回目の結果を報告

複数配置規準改善:小学校850人、中学校800人以上の学校に2人配置

植田誠治(2002)その他をもとに作成

(3)その他の国のスクールナース

 アメリカ以外の国については、学校保健や健康教育の分野で日本に紹介されているものを散見するが、スクールナースに関しては資料が非常に少ない。イギリスとスウェーデンに関してのみ報告されているものがあったので、以下に示す。

 数見13)によると、イギリスの学校保健の成立過程は日本と似ており、戦時体制を背景に青少年の体力増強の必要性から身体検査Medical Inspection、予防接種Immunization、学校給食School Meal、医務室Medical Room、学校医School Doctor、学校看護婦School Nurseなどが設置されたという。そのスクールナースは、Health Visitorとしての地域看護婦の学校訪問をさせたもので、学校専属の訪問看護婦が現れたのは第二次世界大戦後である。1970年代後半になってやっと短期間のスクールナース独自の研修が行われるようになり、1995年に看護婦に対し1年間の養成を行う大学機関ができた。スクールナースとしての研修を受け、証明を得ているものは3分の2程度で、義務ではない。平均4-5校を一人で担当している。中には一人で11校以上担当するものも14%見られた。全国のスクールナースは3000人余りといわれているが、フルタイムでスクールナースの仕事をしているものは28%であり、地域看護婦との兼務やパートタイムのものが多い傾向である。最も時間を費やしている仕事は健康診断、次いで健康指導、カウンセリングであり、常勤でないため応急処置などは低率であった。実際に最もコンタクトしている人は教師(69.2%)、親(48.6%)、意思(12.1%)であった。仕事上の問題点はPaper Workが多すぎる、時間が足りない、スクールナースが少ないなどであった。

 山梨14)によるスウェーデンの保健室訪問記の中では、次のような記述がある。「スクールナースは800人に1名が規定。それ以下の規模の学校は1人のスクールナースがいくつかの学校を巡回する。大規模の高校では、複数のスクールナースが別々の部屋を持ち、また一部共有しつつ勤務していた例も参観した。 (中略)スクールドクターはそれぞれの行政地域に1,2人いて、それぞれの学校を巡回する。」また健康管理は学校医とスクールナースが共同で行うという。具体的には入学時、7歳、10歳、14歳のときの健康診断(身長・体重は毎年計測し、成長曲線に照らして問題があればナースが指導する)のうち入学時に重点があり、地域の母子保健センターからの資料をもとに校医、ナースと、子ども、両親が面接を行い、疾患等への対応を協議する。また「集中力に欠ける子どもや抽象的思考能力が低い子ども」が発見された場合はSpecial Teacherが配置されるよう手当てする。歯科は地域の歯科治療センターが国民全てを管理しているので、学校では扱わない。

 なお、スウェーデン、デンマーク、アイスランド、ニュージーランド、USAでは共通のスクールナースの資格があり、看護大学4年を終了後、RN(登録看護/国家資格)を持ち、さらにスクールナース専門コースで1.5~2年以上学び、資格を取得するという15)

 以上のように、欧米のスクールナースは日本の養護教諭と共通する部分もあるが、基本的には医療職として児童生徒のケアや管理に当たるものであり、日本のような教育職にあたるものではなかった。もちろんナースとしての活動には指導的な内容も含まれるものであるが、第1節で示したような人間形成の機能を持つ教育者としてのかかわりとは異なるものと思われ、日本の養護教諭の独自性が明らかになった。

第2節 その他の領域

1.福祉領域と養護

 これまで検討してきた教育分野のほかに、「養護」という用語は児童福祉関連や老人福祉関連でも用いられている。これらの概念と用いられ方について検討する。

 この領域において「養護」という語が用いられるようになったのは、戦後、児童福祉法が制定されて後のことであり、戦前は主として「養育」が用いられていた。「児童福祉法」は児童に関する福祉についての原則となる法律である。そこでは第4条で「児童」を①乳児、②幼児、③少年と規定し、「養護」という用語が出てくるのは、第7条の児童福祉施設及び第41条の養護施設である。(下線筆者)

 

児童福祉法

第7条 この法律で児童福祉施設とは、助産施設、乳児院、母子生活支援施設、保育所、児童厚生施設、児童養護施設、知的障害児施設、知的障害児通園施設、盲ろうあ児施設、肢体不自由児施設、重症心身障害児施設、情緒障害児短期治療施設、児童自立支援施設及び児童家庭支援センターとする。

第41条 児童養護施設は、乳児を除いて、保護者のない児童、虐待されている児童その他環境上養護を要する児童を入所させて、これを養護し、併せてその自立を支援することを目的とする施設とする。

                                              

 また、これらの児童福祉施設で働く者については、児童福祉法施行令において、保育士と定められている。児童福祉法施行規則によると、この保育士の資格試験科目には「教育原理及び養護原理」が指定されている。

 児童福祉法制定の背景としては、戦後の「浮浪児」の問題があげられる。戦災、引きあげなどにより生じた孤児や浮浪児は、放浪して物を乞い、不良行為につながる者もあった。このような少年の保護のために緊急対策として一時保護所、鑑別所、育児院、孤児院(後の養護施設)などさまざまな児童養護施設が設置されていった。新憲法制定後その理念にもとづき、「不幸な浮浪時などの保護の徹底を図り、進んで次代の我が国の命運を担う児童の福祉を積極的に助長するためには、児童福祉法とも称すべき児童福祉の基本法を制定することが喫緊の要務である」(中央社会事業委員会)との答申を受け、全ての児童の健全な育成、積極的な福祉の推進のために1947年児童福祉法が制定された。この際、所管が厚生省児童局養護課であり、精神薄弱児の保護とまとめて扱われたことから、この法律の中に障害児施設の規定も含められたとされている。

 児童養護の意義として林16)は、「未成熟であり、自分の力だけでは生きることも健全な成長発達も困難な児童に対して、家庭や地域社会、施設等において、児童を守り、さらに健全な人間育成のための働きかけ、とりくみと考えることができよう」と述べている。そしてさらに「児童養護の本質は、児童の生存と発達の権利を守るという風に理解しなければならないのである。つまり、児童を本来等しく有している尊い生命、一人の社会的人格者としてとらえるとともに権利の主体として児童を把握し、児童養護の本質を、児童の持つ権利を保障することと理解しなければならない」とも述べている。

 児童福祉法において、養育環境上に問題のある児童の保護・養育を「養護」と表現し、その入所施設を「養護施設」と命名した経緯については明らかでない。しかし、上記の養護の概念をみると、この児童養護と第2章で検討した教育学における養護とは、基本的考え方において全く同一のものであることがわかる。こうした広義の養護概念の中で、学校教育におけるある部分を担うのが「養護をつかさどる」養護教諭ということになる

 一方、老人福祉関係では、老人福祉法にその根拠を求めることができる。

老人福祉法

第5条 この法律において「老人福祉施設」とは老人デイサービスセンター、老人短期入諸施設、養護老人ホーム、軽費老人ホーム、老人福祉センターおよび老人介護支援センターをいう。

第11条3 65歳以上の者であって、身体上または精神上著しい障害があるために常時の介護を必要とし、かつ居宅においてこれを受けることが困難な者を・・・特別養護老人ホームに入所させ・・・

第11条4 65歳以上の者であって、養護者がないか、または養護者があってもこれに養護させることが不適当であると認められるものの養護を養護受託者のうち政令で定めるものに委託すること。

                                                 

 老人の場合は、児童と同様に「発達の権利を守ること」ととらえるのは厳密には異論のあるところである。杉浦氏が2002年10月の日本養護教諭教育学会の一般発表の席上、「老人の場合は養護でなく擁護を用いるべきではないか」と発言していたが、その趣旨には「養護」は教育学の用語であるという意味が込められていた。しかし「年齢的な理由や病気/障害、または家庭環境などの理由によって自分の力だけでは生きることが困難」という点では児童養護と共通するものがあるともいえる。

 仲村優一ほかによる「社会福祉事典」(1974)では次のように説明されているという。

「法律制度上は、老人福祉法による老人ホーム、児童福祉施設中の養護施設といった名称上の用語例がある。しかし施設入所者(児)の処遇技術上の専門用語として用いられる時は、単にこれらに限られた施設のみでなく、広く収容施設全般を通じたい照射処遇上の言葉として用いられる。また家庭養護、在宅養護というように、家庭における老人・児童に対する近親者の養育の営みや地域社会による養護サービス提供といった使い方も出てこよう。養護(care)は、単に食わせて寝かせる式のいわゆる日常身辺的介護による対象者の物質的ニードの充足にとどまらず、むしろさらにその情緒的精神的ニードにも深く留意し、対象者の人間性や生き甲斐の回復増進が重要である」とされ、養護の対象と場と処遇内容をどうとらえるかは、使用する目的によって異なるものであるとしている。

2.臨床心理と養護

 臨床心理学関係では「養護」という語は用いられていないが、養護教諭の心の健康問題への対応、ヘルスカウンセリングの重要性がとりあげられるようになったこと、ほぼ同時期にスクールカウンセラーの派遣が始まったことから、ここではその制度や学校での位置づけ等について整理をすることで、養護教諭のアイデンティティとの関連を考察する。

(1)文部省の派遣事業

 文部省の「スクールカウンセラー活用調査研究委託事業」は、学校現場において不登校やいじめ問題が顕在化してきた1995(平成7)年度から始まった。この事業は、臨床心理士等の心の専門家を、週2回4時間ずつの非常勤勤務で年間35週、2年間の期限付きで学校へ派遣することによって、不登校やいじめ問題などをはじめとする生徒指導上の課題に対処しようとするものであり、6年間継続された。この制度が非常に好評であったため、2001(平成13)年度からも「スクールカウンセラー活用事業」として、自治体がスクールカウンセラーを配置する際の経費を半額補助する形で継続している。平成17年度までに全国で1万校(3学級以上の全公立中学校)に配置する計画であるという。スクールカウンセラーは、児童生徒へのカウンセリングや教職員・保護者への専門的な助言・援助を行なうことから、臨床心理に関して高度の「専門性」を有していることが必要であり、また児童生徒が気兼ねなく相談できるように学校の教員以外のものであるという「外部性」の確保も必要であるとされている。派遣されているスクールカウンセラーは、約9割が財団法人日本臨床心理士資格認定協会が認定している臨床心理士である。その他には、精神科医や大学の教員などの心の専門家が派遣されている場合もある。また類似の名称の資格も複数存在し、わかりにくいと指摘されている。

 これとは別に1998(平成10)年度2学期から、スクールカウンセラー配置校と小規模校を除く全公立中学校に「心の教室相談員」の配置も行なわれている。これは、生徒が悩みなどを気軽に話せ、ストレスを和らげることをねらって、教職員経験者や地域の人材等の中から配置するもので、高度の専門性を有するスクールカウンセラーとは異なるものである。

またこの他に学校には従来から校務分掌として、教育相談・生徒指導などの担当者で「教育相談の先生」「カウンセラーの先生」などと呼ばれる教員が存在する。そして養護教諭も心の健康問題に対応するとされ、これらの位置づけ、役割等の整理が必要と思われる。

(2)教育相談・カウンセラーの資格

 類似の資格のいくつかについて整理する。

臨床心理士:財団法人日本臨床心理士資格認定協会が行なう認定試験に合格することによって与えられる資格である。この受験資格を満たすためには指定大学院での所定の単位を履修する必要がある。指定大学院には第1種と第2種がある。(第2種の場合は大学院修了

後1年間の心理臨床の実務経験を要す)この制度は現在移行期間中であり、2006(平成18)年度には指定大学院以外からは受験できなくなる。

認定心理士:(社)日本心理学界が一定の基準に基づいて認定するもの。必ずしも特定の職業の資格を保証するものではない。一定の基準とは、基礎科目12単位以上、選択科目16単位以上、その他の科目の単位を加えて計36単位以上を履修することとされている。

学校心理士:日本教育心理学会が認定するもので、その定義は「学校教育にかかわる心理教育アセスメント、カウンセリング及学習・発達援助、教師・保護者及び学校組織へのコンサルテーションなどの心理教育援助サービスを専門的に行なうものをいう」とされ、「教育職員免許法に基づく普通免許状を有し、大学院において専修免許状に「学校心理学」を付記する場合と同等以上の科目を履修し、それらの単位を修得しており、かつ学校心理学に関する実務経験を1年以上有すること」または「教育職員免許法に基づく普通免許状を有し、学校心理学に関する実務を5年以上行なっていること」などが条件としてあげられている。(最近、日本教育心理学会の会員であることという条件は削除された)資格の有効期間は5年間で更新可能とされている。

 先に述べたように現在スクールカウンセラーとして配置されているのは約9割が臨床心理士である。

(3)養護教諭のヘルスカウンセリング

 養護教諭は多くの場合、特にカウンセリング関係の資格を得てはいない。しかし1985(昭和60)年から文部省は養護教諭を対象に「ヘルスカウンセリング指導者養成講座」を継続しており、また各種研修でカウンセリングを学んでいる。また1998(平成10)年には教育職員免許法施行規則の改正により養護教諭養成カリキュラムの中に「健康相談活動の理論及び方法」2単位、教職に関する科目第4欄「生徒指導及び教育相談に関する科目」4単位が最低基準として定められている。

 1997(平成9)年の保健体育審議会に示された「養護教諭の新たな役割」では「養護教諭は、児童生徒の身体的不調の背景に、いじめなどの心の健康問題が関わっていること等のサインにいち早く気づくことのできる立場にあり・・・養護教諭の職務の特質や保健室の機能を十分に生かし、児童生徒のさまざまな訴えに対して、常に心的な要因や背景を念頭において、心身の観察、問題の背景の分析、解決のための支援、関係者との連携など、心や体の両面への対応を行なう健康相談活動である」と示した。

 出井17)は、子どもたちが保健室に来る理由について、「①保健室には養護教諭が1人しかいないので、一対一で話せ、他の人に聞かれないですむ。②養護教諭は教科の成績をつけないから、いろいろなことを正直に話しやすい。③頭が痛いとか、おなかが痛いとか、些細な理由があれば誰でも入ってよい。④額をさわってもらったり、脈をはかってもらうなど、手当てを通しての自然のスキンシップを暗黙裡に求めている」としている。これについての検証はまだ十分なされているとはいえないが、子どもはその発達段階から、身体的症状と心理的な内面がまだ未分化であり、心の問題を身体的不調として訴えることが多い。養護教諭は問診、触診、バイタルサインのチェック、そして手当てを通してスキンシップをはかり、子どもの訴えの意味を心身両面から見極めようとするのは確かである。これが教育相談の教師や心理の専門家であるカウンセラーと養護教諭の最大の違いであろう。また、保健室登校についても、教室には入れないが保健室になら登校できるという気持ちを受け止め、タイミングをはかりながら徐々に人との関わりが持てるよう心身両面から支援を行なうのである。門田18)が示した方法は、技法にとらわれず子どもの様子に応じて柔軟に対応する行動療法を志向した折衷主義であり、養護教諭の多くはこのような方法をとる。

 一方数見19)は、「カウンセリングの技術は養護教諭の重要な専門性であるなどと主張されたりしています。・・・学校という場においてもカウンセリング的な対処で功を奏することも実際にあるでしょう。しかしながら、養護教諭の仕事の本質(基本的立場)をそういう点に求めるのは、私としてはどうしても賛成しかねるのです。つまり健康相談、カウンセリングの発想は、基本的には医療の論理にもとづいており、子どもを医療的対象とみなし、人間形成の対象としてみる教育の論理にもとづいていないからです」と指摘している。この医療の論理に基づくカウンセリングとは、医療の現場において、臨床心理士がある治療方針のもとに行なう心理療法をさすものであろう。しかし学校で養護教諭などが行なうのはそれとは全く異なるものであると思われる。

 國分20)は、「心の健康を保持・促進するのは教育、心の病気を治すのは治療」とし、その違いを明確にすることが、養護教諭のアイデンティティの確立にもつながると述べる。ロジャースが「治すカウンセリング」と「育てるカウンセリング」の違いを曖昧にしてきたために、「カウンセリングを学んだ教師が心理療法家気取りで許容的に傾聴するだけで支持・助言をためらうようになった」と指摘。臨床心理学における「治すカウンセリング」は病理的問題に対応するものであり、教育の場で行なわれる「育てるカウンセリング」は誰もが通過する発達課題を対象にするものであり、後者は特別な治療法を用いないものである。そして当然養護教諭は後者の立場をとるものであるとする。

 養護教諭が教師であるという明確な位置づけは、スクールカウンセラーとの立場の違いを明確にし、そして必要に応じてよい連携を取り結ぶことにつながると思われる。小学生の場合は発達的な課題が多いが、中学生、高校生になると、深刻な悩みをかかえたり、精神疾患等を疑うケースも見られるようになる。そのようなとき、臨床心理士の専門性は大いに生かせる。学校全体の組織・体制を把握している養護教諭が調整役となって、関係者をつなぐことができれば、一人の養護教諭、あるいは一人の教師、一人のカウンセラーが対応するよりはるかに豊かな支援ができるようになるものと思われる。谷川21)らはスクールカウンセラーが配置された学校の養護教諭を対象に調査した結果、スクールカウンセラー導入による保健室利用者数の変化はなかったが、学校全体のカウンセリングに対する理解が深まり、養護教諭の相談活動によい意味で変化が見られたものが多かったと報告している。こうした意味で、養護教諭とスクールカウンセラーは互いの職務を侵害するものではなく、補完しあい、協働する関係にあるといえる。

 

第4章のまとめ

1. 看護と養護

 看護の概念を幅広くとらえると、対象者、目的いずれも養護と共通であると見ることもできる。従って「学校で看護をするのが養護教諭」という理論を否定することができない。結局、養護観の本質的な特徴は「教育として」「発達の可能性を伸ばす」ところにあり、「養護教諭はその活動全ての根底が教育的働きかけであり、教育の論理が内在するため、看護婦が看護ケアをベースとしながら教育的働きかけがあるのとは異なるものである」とされている。
 諸外国のスクールナースと比較すると日本の養護教諭は、教育職員として一校一名の常駐制であることがまずあげられる。欧米のスクールナースは、基本的には医療職として児童生徒のケアや管理に当たるものであり、日本のような教育職にあたるものではない。もちろんナースとしての活動には指導的な内容も含まれるが、人間形成の機能を持つ教育者としてのかかわりとは異なるものであると思われ、日本の養護教諭の独自性が明らかになった。

2.福祉領域と養護

 福祉の領域において「養護」という語が用いられるようになったのは、戦後、児童福祉法が制定されて後のことである。児童養護の本質は、児童の生存と発達の権利を守るところにあり、教育学における養護とは、基本的考え方において同一のものである。こうした広義の養護概念の中で、学校教育におけるある部分を担うのが「養護をつかさどる」養護教諭ということになる。 

3.臨床心理と養護教諭

 國分は、「心の健康を保持・促進するのは教育、心の病気を治すのは治療」とし、その違いを明確にすることが、養護教諭のアイデンティティの確立にもつながると述べる。臨床心理学における「治すカウンセリング」は病理的問題に対応するものであり、教育の場で行なわれる「育てるカウンセリング」は誰もが通過する発達課題を対象にするものであり、後者は特別な治療法を用いないものである。そして当然養護教諭は後者の立場をとるものであるとする。養護教諭とスクールカウンセラーは互いの職務を侵害するものではなく、補完しあい、協働する関係にあるといえる。

第4章文献
1)飯田澄美子ほか:養護活動の基礎、pp18-20、家政教育社、1988
2)飯田澄美子:看護と養護をめぐって(学校看護研究会より)、学校保健研究22(12)、pp574-576,1980
3)池田哲子:養護教諭養成過程における看護の位置づけ、学校保健研究22(12)、577-579、1980
4)工藤宣子:養護教諭の“養護”を問う、日本教育保健研究会第8回大会抄録集、pp43-44、2001
5)前掲書3)、
6)岡田加奈子:養護・養護教育と看護―養護教諭に関連して―、千葉大学教育学部紀要46(Ⅰ)教育科学編、181-192、1998
7)森昭三:これからの養護教諭、39-45、大修館書店、1991
8)杉浦守邦:養護教諭制度の成立と今後の課題(日本養護教諭教育学会第9回学術集会当日資料)、pp9、東山書房、2001
9)面澤和子:日本学校保健学会第44回講演集~第47回講演集、1997-2000
10)藤田和也:アメリカの学校保健とスクールナース、大修館書店、1995
11)鎌田尚子ほか:養護教諭だけの健康教育ツアー、健康教室40(8)、pp78、東山書房、1989
12)植田誠治:諸外国のスクールナースの現状-米国を中心にして、日本養護教諭教育学会第10回学術集会抄録集、22-23、2002
13)数見隆生:イギリスのスクールナースに関する実態調査、日本学校保健学会第44回講演集、pp182-183、1997
14)山梨八重子:ネットワークの要としての保健室、体育科教育別冊・学校保健のひろば44(9)、1996
15)鎌田尚子:養護教諭の職を考える、全国養護教諭連絡協議会第7回研究協議会抄録集,pp27-32、2002
16)林久雄:保育叢書9養護原理、pp17-24、福村出版、1983
17)出井美智子・鳴澤實:子供の心がわかる養護教諭に、pp11-20、学事出版、1991
18)門田美恵子・國分康孝:保健室からの登校、誠信書房、1996
19)数見隆生:養護教諭の教育実践、青木書店、1984
20)國分康孝:養護教諭の職を考える―教育カウンセリングの立場から―、全国養護教諭連絡協議会第7回研究協議会資料、pp13-17、2002
21)谷川なつみ・安田道子:養護教諭とスクールカウンセラーの連携、学校保健研究、40 Suppl、pp94-97、1998


終章 養護教諭のアイデンティティ[to top]

 本章では研究全体の概略をまとめ、はじめに設定した3つの課題を検証し、養護教諭のアイデンティティ確立に向けての展望と今後の課題を示す。

1.全体のまとめと課題の検証

 第1章では学校看護婦が養護教諭へと移行してきた経緯および養護教諭としての職務の変遷を検討した。学校看護婦は身分の確立を求めながら、子どもの実態に沿った教育活動を展開したこと、また子どもの健康問題の変化により職務も変化してきたことを明らかにした。

 第2章では「養護」という用語の起源や、わが国への導入の経過、養護教諭に関わる養護概念に関する議論の内容を検討した。「養護」には、「教授・訓練・養護」という教育の三方法として導入されてきた「一般養護」概念と、特に「監察」を必要とする児童生徒のための「特別養護」概念があり、これは時代背景に影響されながら、日本独自の発展をしていた。

 第3章では、特殊教育における「養護」と養護教諭の関わりを検討した。「養護学校」「養護学級」の名称は、大正~昭和にかけて急増した身体虚弱児童に対する教育に由来し、その誕生は、「養護訓導」の誕生と同時期のことであった。

 第4章では、国内外の看護職を中心に、福祉領域、心理領域等、近接領域の他職種と養護教諭との相違について検討した。広義の看護と養護は近い概念であるが、学校における養護は人間形成という教育機能に内包されるものであり、看護とは異なる独自の意義があった。

 以上の検討を通して、はじめに設定した3つの課題については、次のように結論づけることができる。

①養護教諭の職務内容の変遷の要因

 特に第1章の検討から、その最も大きな要因は児童生徒の健康実態であったといえる。

学校看護婦の時代から、養護訓導を経て現在の養護教諭まで、制度的な不備や、国家体制、社会情勢などの強い影響を受けざるを得なかったが、養護教諭は常に子どもの健康の実態をていねいに読み取って、トラホーム、結核、寄生虫対策、う歯、低視力、肥満、生活習慣の乱れ、心の健康問題など、その時代の子どもの変化に応じた活動をしてきていた。その結果、トラホームや結核等の伝染病が多い時代には衛生対策が主な職務であり、生活の変化がからだに影響を与えた時代には健康教育、心の健康問題や複雑な課題への対応へは組織活動をと、子ども中心に柔軟に変わってきたことが明らかになった。そしてそれは治療や第二次予防ではなく、子どもを守り育てようとする「養護」の視点からくるものであったといえる。

②「養護教諭」の「養護」と、「養護学校」の「養護」の概念的相違

 第2章と第3章の検討から、両者はともに、教育学の一分野である「養護」の概念が学校衛生の内容と結びついた「特別養護」から発し、特別な配慮を必要とする児童生徒への教育活動として発展してきたものであった。その結果、双方の制度が確立した時期もほぼ同時であった。従って、根本的にその起源は同一であると いえる。しかし養護教諭はその後、その対象を一般養護へ、全ての児童生徒へと拡大し、特別養護にかかわるという意味合いは薄くなってしまった。また特殊教育においても、当初養護の対象とされた腺病質の身体虚弱児童生徒は激減し、児童生徒の障害の実態は多様化している。

③養護教諭の他の職種には見られない独自性

 養護教諭の独自性は、看護職や欧米のスクールナース等との比較から、「一校に常駐する教育職員として、児童生徒の心身の健康の実態に即して、健康に生きる力を育てる教育者」という点にあるといえる。

 その機能は、保健室で個に対して発揮されることもあり、学校全体の児童生徒に対して発揮されることもある。歴史的な経過を見ると、最も基本となる役割は個人の健康の保護および増進(一種の特別養護)にあるが、その基礎に人間を育てる教育の機能があり、健康支援活動と健康教育活動を絡み合わせながら機能を発揮するというところに特徴があった。また、その職務の遂行において児童生徒を取り巻く環境への働きかけも行なっていた。すなわち、保護者や地域との連携、医療や福祉との連携などによる環境調整の機能である。これについて、次の項でもう少し検討する。

2.コーディネーターとしての養護教諭

 これからの教育はチームアプローチが大切であるといわれている。とくに障害や疾病があるなどの特別なニーズをもつさまざまな児童生徒の豊かな成長のためには、さまざまな職種の専門家が協力し合う柔軟な体制が必要であると、昨年秋に公表された「特別支援教育の在り方に関する調査研究」の中間まとめにも述べられている。しかし、現状ではまだプライバシーを考えて踏み出せなかったり、他職種との壁が崩れていないように思われる。

 医療的ケアをはじめとして健康上の課題のある子どもの支援には、養護教諭が養護の専門職として積極的にリーダーシップをとることが望ましいのではないかと考えられる。特定のクラスを担任しない養護教諭は、学校全体を見通せる立場にあり、また一人の子どもを何年にもわたって見守ることもできる。一人一人の児童生徒を守り育てる仕事をしながら、健康に関する問題の校内の取りまとめ約となり、教育側の窓口の一つとして医療や福祉との橋渡しをすることで、子どもを取り巻くチームがよりよいチームワークで結びつき、子どもの健康や教育を保障していくことにならないであろうか。

 例えば、医療的ケアが必要な子どもがいる場合、まず養護教諭は担任とともに本人や保護者から全身的な健康状態、ケアの詳細、主治医の意見や医療体制等の情報を収集する。保護者の了解の下、直接主治医から情報を得る場合もあってもよい。そして関係職員や学校医等で検討組織をつくり、教職員ができることを明らかにし、保護者・主治医・学校医等とも連絡をとりながら学校における医療的ケアの実施体制・実施方法の組織的な検討を推進する。そして状況により自らも可能な範囲のケアの一部を担いつつ、常に安全なケアがなされるよう指導力を発揮する。教職員が学校でできないものについては、社会資源との連携を検討する。また教育的関わりとして、セルフケアの自立に向けた支援や精神的なサポート、教職員はじめ他の児童・保護者への正しい知識の啓発(健康教育)により、校内の受容的な環境づくりも重要な仕事となると思われる。

 養護教諭はこうした機能を持てるのではないかと考えるが、養護教諭自身の自覚も、教職員、保護者、医療・福祉関係の職員の養護教諭に対する理解も未だ不十分である。それどころか校内での健康管理の基本となる健康状態の把握ですら十分でない現状がある。第3章であげた猪狩1)の調査では、保護者が適切に対応してもらえないことを恐れて学校に病名を隠していることもあり、また養護教諭からは「登校している子どもへの対応でびっしり」「病弱児がいなくてもハードである。さらに加わったら不可能」というような記述があり、特別の配慮をすることが難しい現状が表れていたという。

 養護教諭の機能について、一般に理解が得られるような独自性を明確にするための理論化が必要であるし、独自性の内実を示せるようにするための検討がさらに必要である。また職務の拡大から、養護教諭の原点である個人の健康保護に関して、十分かかわっているとはいえない状況もみられるため、改めて職務を見直す必要性も考えられる。こうした研究の積み重ねが養護教諭のアイデンティティにつながっていくものと思われる。

3.教育者としての養護教諭

 森2)は養護教諭の理想とする姿として Fig.5-1を示し、②の教育の専門的力量、および③の養護の専門的力量の部分に看護婦と養護教諭の違いを指摘する。そして「健康問題という現象がなくなればよいという発想が基本なのではなく、健康に生きる力、その根っこのところを太らせ、豊かに育てていくことによって、そういう現象が生じないような状況を作り出していくことこそが、教育としての実践だといえる。・・・養護の専門的力量の中には、全てこの教育の論理が内在するのである」として、養護の本質が、(予防教育とは異なる)人間形成の教育にあることを示唆している。


Fig.5-1 養護教諭の理想とする姿(森1991による)

 森の示すような「教育者としての養護教諭」理論がさらに行われる必要がある。

 リーバーマンは、「プロフェッションとしての教育」(M.Lieberman:Education as the Profession,Prentice Hall, Inc,1956)において、専門職の特質として次の8つを挙げているという1)。

  ①独自の(ユニークな)、欠くべからざる社会的なサービスであること

  ②サービスを果たす上での高次の知的技術

  ③長期にわたる専門化した教育

  ④広範囲な自治権、それは個別的実践者としての、また職業集団全体の自治権であり、

   実践において裁量の判断を下しうるための権利である

  ⑤自らの判断に対する責任

  ⑥報酬よりサービスが重視される

  ⑦専門的基準を高めるための自治組織を持つ

  ⑧職業集団としての倫理綱領を持つ。それは固定的な規範ではなく形式的な規範である

 小倉2)はこれらのうち、養護教諭の専門職としての用件の一つに①を取り上げ、「ユニークで明確で社会的に不可欠なサービス」について、次のように説明している。「ユニーク」とは余人または他の職種では代行できない仕事、「明確さ」とはその職種の機能の内容、範囲が一般の人々にも明らかに理解されていること、「全ての人に不可欠なサービス」とは社会的・奉仕的な奉仕としての性格である。

 一方 國分3)は、「職業としてのアイデンティティ(プロフェッショナル・アイデンティティ)の本質は、役割(権限と責任)をどう認識しているかである」とし、自分の権限、責任の自覚が曖昧な場合は、他の職権との連携がしにくい、他の職種に介入されすぎる、支配される、あるいは逆に他の職権に介入しすぎる、支配するという不協和が生じるとする。

 こうしたプロフェッションとしての特質を養護教諭にあてはめて考えた場合、学校教育法で養護教諭という職業が確立した1947年以来55年も経過しながら専門職として確立できていない課題がいかに多いかに気づく。

 本研究はささやかにその一端に取り組んだに過ぎないが、結論として、養護教諭は「教育の一概念としての養護」をつかさどる教育者であり、いかに医療的な管理が必要な児童生徒を対象にしようとも、看護師が導入されようとも、養護教諭は看護師とは同じではない、教師とも異なる独自の機能を持つものであるという強い確信を得ることができた。その独自性の内実を生めるための更なる研究が必要である。

1)猪狩恵美子:通常学級在籍病気療養児の学校生活に関する実態調査報告書、平成11年度東京と大学院派遣研修報告、2001
2)森昭三:これからの養護教諭、39-45、大修館書店、1991

謝 辞

 指導教官の松石竹志先生と、信頼できる貴重な資料を快くお貸しくださった山本昌邦先生をはじめ、授業でたいへんお世話になりました障害児教育専攻の先生方にも厚く御礼申し上げます。授業を通して、児童生徒の理解を深める多くの学び、教師としての幅を大いに広げることができたように思います。本当にありがとうございました。

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